メジロ

 父が軍手の中からそっと取りだしたものがある。それは小さなメジロだった。僕が小学生だった頃の事である。どこから

貰ってきたのか記憶にはない。メジロという小さな生き物に接した最初の経験だった。そっと握るとおびえているのか、その

小さな体のふるえとぬくもりが僕の手のひらに伝わってきて、つい頬ずりをしたくなるような愛おしさだった。早速買ってきた

メジロ籠に入れてやると、初めの内はばたばたと暴れていたがやがておとなしくなった。

 メジロの餌は練り餌である。餌はすり鉢で「ひずる」(正式にははこべという)や「しいと」(正式にはぎしぎしという)の葉っぱを

すり鉢でする事から始まる。そして練り餌となる粉を加え水を足す。入れすぎると柔らかくなりすぎる。少ないと時間が過ぎる

につれて乾燥し固くなってしまう。その辺の調整が大事だ。初めは父がやっていたが、しばらくして僕か弟の仕事となった。

 こうしてメジロは我が家の一員となった。名前は鳴き声にちなんで「ツー公」と名付けた。ツー公は良く鳴くメジロだった。

僕らは他のメジロを捕るために近くの山に行った。その山の少し開けたところにメジロ籠を置き、周辺の木の枝やメジロ籠

の上に鳥もちの着いた枝を刺しておく。こうするとメジロの鳴き声に誘われて他のメジロがやってくる。本当はそのはず

だった。ところが待てど暮らせど他のメジロはさっぱり姿を見せない。籠の中のツー公は盛んに友を呼んでいる。どうも

変だと下の谷筋に下りてみると霞網が張ってあった。そこにはきれいな鳥が引っかかって暴れていた。紫色の羽根が

虹のように見えるきれいな鳥であった。今まで見たこともない鳥であった。

 後に図鑑で知ったのだがオオルリという名の鳥であった。わずかな間に色んな小鳥が面白いように引っかかり、僕らは

あきれ顔で見ていた。どうもこの薄暗い谷筋は小鳥たちの通り道らしかった。この小鳥たちが我が家のツー公の鳴き声に

誘われてこの道を通りかかったのか、いつも行き交う道なのか定かではないが、待てど暮らせど来なかったのはこの霞網の

せいであったことは間違いなかった。僕らは仕方なくあきらめてツー公を連れて家に帰った。

 飼い始めて一年も過ぎた頃にはすっかりなついて籠のフタを開けて置いても逃げようとはしなかった。外にある好物の

ミカンをつついては籠の中に戻っていく。夏の頃なら籠の上から水をかけてやると、うれしそうに飛び込んできて水浴びを

していた。お客さんが来て話を始めると興味深そうに籠から下をのぞき込んで首を傾げる仕草がとても可愛かった。そして、

自分はここにいるんだと言わんばかりに大きな鳴き声でさえずりを始めるのであった。「あっ、またツー公が負けんように

しゃべり始めた」といってお客さんに説明をするのが常であった。

 ツー公はメジロの寿命としては長生きだったのではあるまいか。三年くらいは生きていたように記憶している。死ぬ前には

足に大きなこぶのようなものが出来ていて止まり木にもうまく止まれなくなっていた。止まり木に着いた糞の中の寄生虫が

巣くっていたのかも知れない。

 ツー公の好物は何よりもミカンだった。蜜柑は輪切りにして籠の上に伏せておく。一日もするときれいに食べていた。そして

サツマイモも好物だった。焼いた芋、蒸かした芋いずれでも良かった。こうして三年あまり生きたツー公もある日突然冷たく

なって籠の底に落ちていた。あっけない小鳥の死であった。

 ツー公が死んでしばらくしてから、ツー公の後を埋めるように二代目がやってきた。このメジロの名前もツー公だった。

二代目ツー公がいつまで我が家にいたのか定かではない。確か、僕が中学校に入る頃まではいたと思うのだが、死んだ

のか逃げてしまったのか、その後の記憶は定かではない。

ツバメ

 僕らが子供の頃、大きな道路だと思っていた道は、今では小型バスでさえ通行がままならぬような小さな道となって

しまった。その道が雨の日にはぬかるんで大きな水たまりを作っていた。道には牛や馬が落とした大きな糞がたたきつける

ような雨に打たれて流されていた。ツバメ達が忙しげに道路をかすめるように飛び交っていた。そんな道路脇の大きな石碑

の側に雨に濡れたツバメが震えていた。珍しい光景であった。

 身近に住んでいる鳥ではあったが、こうやって眺めるのは初めてだった。どんな雨の日でも悠々と飛び交う様はまるで

雨の精のようでもあった。そのツバメが事もあろうに雨に打たれて震えているのである。近づくとわずかにおびえたように

逃げようとするのだが、よろよろとして逃げる元気もないらしい。手にとってよくよく眺めると羽根にべったりとまとわりつく

ようなものが付いていた。それは細い蜘蛛の糸だった。黄色をした容易には切れそうもない兵隊蜘蛛の糸だった。この糸は

蝉を捕るときにも使えるような強さと粘着力を持っていた。雨に濡れた羽根に蜘蛛の糸、これがこのツバメを飛べなくさせて

いた。僕らは手の中で丁寧に蜘蛛の糸を取り除いてやった。そして濡れた羽根をタオルでそっと拭いてやり、餌を与えて

やった。

 やがて羽根が乾き、餌で元気を取り戻したツバメは手の中で元気にもがき始めた。飛び立とうとしているようであった。

僕は握りしめていた手をそっと開いてやった。ツバメは一気に雨上がりの空に向かって飛び立った。そして僕らの上で

一回転すると空の彼方に消えてしまった。梅雨明け間近な青空が頭の上に広がっていた。

ヒバリ

 堤防に立つと眼下に刈り取り間近な麦畑が広がっていた。空高くヒバリがさえずりながら飛んでいる。突然の如く鳴き

止むと一気に舞い降りてくる。そしてしばらくすると再び飛び立ち大空を目指す。僕らはめざとくそれを見極めて、そっと

田圃に入っていく。

 すでに子供の腰の当たりまで伸びた麦が体半分を隠してしまう。ヒバリの舞い上がった当たりの畝をそっとたどっていくと

麦の根本に小さな巣があった。ヒバリの巣である。中には生まれたばかりの目の見えない裸の雛が親鳥が近づいたのと

勘違いして大きな口を開けながら首を伸ばしている。二匹いたのだろうか三匹いたのだろうか。記憶にはない。とにかく

卵からかえったばかりの雛を全部持って帰り友達と分け合った。ヒバリや雀の雛をドンビー子と呼んでいた。僕らは田圃の

中や屋根の上を歩き回ってしょっちゅうおじさん達に叱られていた。それでも懲りることなく何度もやっていた。

 ヒバリの雛は羽毛もなく丸裸で寒そうだった。そして妙に痛々しかった。弟と一緒にそっと包み込むようにして家に持って

帰った。初めは小さな段ボール箱の中に綿を入れて飼っていた。餌はメジロの練り餌だった。時々蠅や蜘蛛を捕まえては

食べさせていた。こうして一週間もすると羽根がはえ、目も空いて側に近づくと親と思いぴいぴいと甘えてくる。何とも言えず

可愛い姿だった。

 その内、羽根を広げてばたばたし始めた。巣立ちの準備を始めたのだろうか。そんなある日事件は起きた。手のひらに

乗せて餌をやった後、遊んでいた時だった。突然あっという間に手のひらから飛び出して、そう高くもないところから地面に

落ちてしまったのだ。しばらくはもがいていたが、やがてぴくりとも動かなくなってしまった。その時すでに息は止まり、小さな

体には死後の硬直化が始まっていた。あっけない突然の死であった。僕は為す術もなく呆然としていた。

 弟が帰ってきてからが大変だった。ヒバリは僕と弟が共同で飼っていたものだった。弟は僕を攻めた。あんちゃんがヒバリ

を殺してしもうたと言って責めるのだ。いくら理由を言っても理解できる年齢ではなかった。こうして泣きじゃくる弟を前に、

僕も大声を出して泣きたい気持だった。幼い日の苦く悲しい思い出である。

あとがき

 僕らは生き物を飼い、何度も生き物の死を見てきた。命のはかなさというものを体験を通して知ってきた。こうした体験が

命の大切さや、命というものはともすれば大変もろいものでもあることを教えられてきた。残念ながら現代に生きる子供達

にはあまりにも制約が多すぎて、身をもって体験することがほとんどなくなったことは残念でならない。

 一見残忍に見えるような行為で殺人に至るようなケースも少なくない。彼らの行動の背景には命のもろさやはかなさが

良く分かっていないような気がしてならないのである。私達の子供の頃には親の死もおじいさんやおばあさんの死も近所の

おばさんの死もごく身近にある出来事だった。死が身近なところから遠ざかるに連れて、死というものが現実離れした事に

なってしまった。死というものをもっと身近に現実のものとして受け入れるような社会にしていかなければと思うのである。

                                                       2002年3月7日掲載

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