心の風景

 私の愛唱歌には千昌夫の「望郷酒場」や、さだまさしの「無縁坂」があります。その一つ「望郷酒場」は私の幼い頃の

思い出とリンクしています。私の父親は無類の酒好きでした。酒がおいしいと思って呑んでいたのか、習慣のようにして

呑んでいたのか、今となっては尋ねようもありません。と言うのも私が二十五歳の時に交通事故で亡くなったからです。

その日もしたたかに酔って道路にふらふらと飛び出した時に、軽四トラックにはねられ全身打撲で亡くなったのです。

病院にかつぎ込まれたときには息もなく、ほとんど即死に近いような状態でした。

 余談になりますが私も父親似で無類の酒好きです。父が亡くなった日も友人達と一緒に寮で楽しく呑んでいました。

神辺から電話だというので、この時間に何だろうと電話口に出てみると、動揺して泣き崩れんばかりの母の声でした。

父が交通事故に合ったと言うのです。一変に酔いが醒めてしまうようなショックでした。一緒に呑んでいた仲間に話すと、

すぐ帰れと励ましてくれました。私は呼んだタクシーに乗り、一緒に居た仲間の何人かも私の後を追ってくれました。

今となっては記憶も薄れてしまい、仲間達と一緒になって夜遅い井原の市民病院に駆けつけた事しか覚えていません。

薄暗い手術室のベッドの上に横になった父の姿がありました。しかし、すでに死後硬直が始まっており、しかも打撲で

見にくく顔も腫れ父の面影はありませんでした。着ていた服は破れ、あちらこちらにほころびた跡もあり、衝撃の強さを

物語るものでした。お医者さんと警察の方からお父さんに間違いはないか確認を求められました。元気が良かった頃

の父とはあまりにもかけ離れた姿でしたが、間違いなく私の父でした。心の奥底では、何故か父とは認めたくないと

言う思いもありました。

 こうして父は帰らぬ人となってしまったのでした。せめてもの救いは、ほとんど即死に近い状態だったと言うことです。

それも泥酔に近い状態だったとのことで苦しむ事なく、あの世に旅立ったのだと言い聞かせ父の死を受け止めました。

 父は若い頃から病気知らずの丈夫な体をしていました。それを常に自慢していました。事実、父の家系は父の母を

初めとして皆長生きの家系です。この父が老いて病気になり寝込むような事でもなれば、どれくらい惨めな思いをするか

分かりません。若くして亡くなったことは非常に残念ですが、重い病気で長患いをしなかっただけでも、せめてもの救い

だったかも知れません。

 そんな父ですが子供の頃は大嫌いでした。優しいところのある父だったのですが、酒が入ると全く別人になって

しまうのです。そんな訳で、小学生の頃は学校から家に帰る頃になると、暗く憂鬱な気持になっていました。今日は

外で呑まずに帰って来ているだろうか、今日は酒臭い匂いで酔いつぶれてはいないだろうか、そんな事ばかり考えて

いました。

 悲しい思いも何度かしました。年末に出たまま正月になっても家に帰ってこない父を神頼みでお宮詣りをしたことも

ありました。そのお宮さんは、それまで行ったこともない小さな神社で小学校の校庭が見下ろせるところにありました。

隣に住んでいた父の実の姉「とみえおばさん」が母に同情して一緒に行ってくれました。ある時は母がたまりかねて

神戸に住んでいる実の姉のところへ行ってしまいました。母と一緒に行ったのは小さな弟だけでした。私は本家に

預けられました。辛く悲しい思いをしながら、お祭りで賑わうお宮の境内にぽつんと佇んでいた事もありました。みんな

うれしそうにははしゃぎ回っている時、自分だけが取り残され本当に悲しい思いをしました。

 何かしら悲しい思い出がつきまとう時にはいつも父の酒が絡んでいました。ある時には父の頬を思い切り殴った事も

ありました。それは近所の一杯飲み屋で酔っぱらって家に帰って来ない日の事でした。行きたくないのを母に説得され、

我慢して飲み屋に行ってみると、父が酔いつぶれていました。腕を引っ張って帰ろう言うのですが、どうやっても動き

ません。子供の力ではどうにもならないような状態でした。周りの人はじろじろ見ているし、恥ずかしさとだらしのない

父への腹立たしさで、ついつい手が出てしまったのです。泣き出したい気持をやっとの思いでこらえ、そのまま店を

飛び出しました。楽しいはずのお祭りや正月の思い出の多くは、悲しい思い出と共にありました。そんな訳で私は父を

憎むと言うよりは酒そのものを憎んでいました。酒さえなければ、こんな辛い悲しい思いはしないで済む、そう思って

いました。そして、私の誓いは絶対に酒は口にすまいと言うことでした。

 しかし、そんな誓いは簡単に破れてしまうほど脆いものでした。就職をして寮の歓迎会の席、飲まぬつもりの一杯が

二杯になり三杯と、何時しか、したたかに酔っていました。カエルの子はカエルでした。こうして就職先の土地柄のせいも

あって、日々欠かさぬほどに酒に溺れていくことになったのです。就職一年目の冬、帰省した時、初めて両親と弟の

四人で福山に飲みに出かけました。その時、弟を初め家族みんなが私の変わり様に驚いたのでした。

 以来、今日に至るまで酒は私の良き友となってしまいました。もちろん、サラリーマンですから父のように昼間から

飲むような事もありませんし、酔いつぶれて家に帰る事を忘れてしまうような事はありません。しかし、スナック等外で

飲んでいると、何時しか思いは遠い昔の悲しかった日々に立ち戻っています。「望郷酒場」は、そんな私の在りし日の

思い出に重なり合うものがあるのです。「親父みたいなよー、酒飲みなどーにならぬつもりがなっていたー」と、今は

私の十八番の一つになっているのです。決して上辺だけの歌でない本物の思いが切々とこみ上げてきて、思わず

目頭が熱くなることがあります。そして私の愛唱歌として今も歌い続けているのです。

 そんな父と長年連れ添ってきた母は不幸でした。今更ながらに、父に対する接し方が間違っていたと盛んに反省を

している母です。父と母の間にどんな確執があったのか、今更知る由もありません。また母自身も何も語ろうとは

しません。きっと、それぞれに満たされぬ思いがあったに違いないのです。私も父が亡くなった年齢を超えるようになって、

何となく両親の気持ちが分かるような気がしています。子供の頃は苦労している母の姿を見ているのが辛くて、いつも

母に同情をしていました。

 若い時にはきれいな母でした。そんな若き日の母の姿が「無縁坂」に歌われている母の姿と重なって来るのです。

「母がまだ若い頃、僕の手を引いて、この坂を登る度、いつもため息をついた・・・」在りし日の母も、老いて八十を越える

ような年齢になりました。白く柔らかな手はしわだらけになってしまいました。小柄だった体はますます小さくなってしまい

ました。そんな年老いた母の背に、過ぎ去りし日の若く美しかった母の姿を重ね合わせて見るのです。今はただ一日

でも多く長生きをして欲しい、そう思う毎日です。

                                                    2002年8月24日掲載

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