私が生まれたのは1944年5月(昭和19年)です。時あたかも第二次世界対戦(太平洋戦争)のまっただ中です。

私の名前は「勝利=かつとし」ですが、第二次世界大戦での日本の勝利を祈念してつけた名前だそうです。名前は

戦争にちなんだ名前ですが戦争には反対です。従って、今はこの名前を人生における勝利者、ビクトリーと自分なり

に勝手に解釈しています。(笑)

 私が戦争の最中である昭和19年に生まれたのは、甲種合格であった父が、何故か2度目の徴兵(赤紙は来ず)

はなく、五体満足で国内にいたからです。

父の戦争(ノモハン事変)

 父は福山第12連隊に入隊し、ノモハン事変といわれた旧満州(現在の中国)での旧ソ連軍との戦争に参戦しま

した。この戦争は、日露戦争で劇的な勝利を果たした日本軍が、ソ連の兵力をなめきっていたことに起因する

悲劇の始まりでした。

 旧満州(現在中国の東北地方)で展開された、この戦争での勝敗は初めから決まっていました。日本軍はソ連軍

の圧倒的な機動力(戦車などの陸上兵器)の前に為すすべもなく大敗をきっしました。200人の内、生存者は数人

というような実に悲惨な戦争だったそうです。(父の話から)

 父も何度か生死の境目をたどりながら九死に一生を得て、わずかなかすり傷程度で奇跡的に帰ってきました。

そんな戦争でしたから内地にいた人達は、生存者は一人もいないと思っていたようです。父の叔父もその一人

でした。叔父は、父が、よもや生きては帰るまいと思っていたのか、父の財産いっさいを自分のものにしてしまい、

父が戦地から引き揚げて帰ったときには、父のものは何もなく、無一物になっていました。

 出征前、父は株屋(証券会社)につとめており、やり手の場立ちとして第一線で働いていました。お客さんの

資金運用だけでなく、自らもかなり儲けていたようです。田舎の両親には家を建ててやっていた位ですから、相当の

資産を叔父に盗られてしまったことになります。

父母の結婚

 さすがに叔父も寝覚めが悪かったと見えて、父の機嫌をとるために、叔母(叔父の嫁)の出所である田舎から

叔母の姪である娘(私の母)をめあわせ、父と結婚させたのです。結婚後、実情を知った母は叔父に財産を返して

貰うよう父に何度か話したようです。しかし、父は高等小学校を卒業したばかりの頃から京都に連れて来られ、

一人前になるまで世話になった叔父にはどうしても反発できず、結局泣き寝入りだったようです。おそらく父としては、

まだ若いし時期が来れば、いつでも心機一転やり直せると考えていたのだと思います。

 太平洋戦争が激しくなり、神辺に疎開してきた後も、いつかは京都に出て、もう一旗揚げたいと、夢はずっと

持ち続けていたようです。私達が子供の頃、酒が入ると二言目には「もう一旗揚げるんだ」と、口癖のように

言っていたことを思い出します。

京都から神辺へ

 話は戻ります。戦局はより深刻さを増し、父の勤めていた株屋(証券会社)は閉鎖され、父は軍需工場で働らく

ようになっていました。その頃から、近隣の都市は日毎に空襲を受けるようになり、京都もいつ攻撃されるか分から

ない様な雲いきした。そして田舎に親戚や身よりのある人は、早めに疎開をするようにという指示も出ていました。

 母にとってみれば色々あったけれど、この短い京都での生活が一番幸せな時であったようです。住んでいたのは

八坂神社のすぐ下にある老舗のお菓子屋さん「おはらめ屋」の裏二階の間借りでした。絹江さんという女性

(おはらめ屋の女主人)に抱かれた私の写真が、今も母の手元にあります。

 わずかばかりの身の回りのものを持って、父と母はやむなく生まれて間のない私を連れて、父の実家の神辺に

疎開して来たのです。一時親の家である平野に身を寄せていました。

神辺を巣立つまで

 戦争さえなければ、父の人生も母の人生も、大きく変わっていたに違いありません。当然、今日の私の存在も

なかった訳で、戦争は人の運命を思わぬ方向に引っ張っていってしまうものです。

 よちよち歩きの私が、夕暮れ迫る縁側で「かあ、かあ」と、カラスの鳴き声をまねしたのが、言葉を話し始めた

最初だったようです。

 以下は、私自身の神辺での幼少時代が始まります。神辺で小中学校と生活し、高校の3年間は福山に通いま

した。そして、卒業、就職となり、以来、神辺で再び生活することはありませんでした。私の生まれは京都ですが、

やはり子供の頃を過ごした神辺が一等私の古里です。

 当時の山や川は、私達の遊び場であり、1年を通じて季節折々の思い出がいっぱい残っています。川の何処で

何がとれたとか、あの山に行けばこんなものがあるだとか思い出は尽きません。当時、山も川も人々の生活と

密接に関連しており、荒れることなく、大変きれいだったように思います。

 6月、田植えの頃、高屋川の堤防にたつと、目の前は一面の早苗田でした。そして夜は蛍が乱舞していました。

秋になると争って山に行き、食べ切れぬほどのアケビをとって帰りました。何キロもある山道を近所の子を引き

連れて山深い村にアケビ取りに行ったこともあります。松茸泥棒と間違われておじさんに追いかけまわられた事も

あります。今はすべてが懐かしい思い出ばかりです。

 夕日を背にして、幼い兄と妹が馬の背にまたがって、家路を急ぐ姿など、まるで映画にでも出てきそうなシーンを

目にすることもありました。河原でお産をする牛の姿を見た弟が興奮して家に帰ってきたこともありました。

 これらすべての美しいものを犠牲にして、私達は今日を築いてきました。私達の進歩発展とはいったい何なの

でしょうか。私には、人間の幸せとはいったい何なのだろうと言う疑問が、いつも胸の中にあります。

戦争は運命を狂わしてしまう!!

 私の父や母のみならず、戦争によって親子が生き別れになったとか、一家全滅になったとか、息子がみんな戦死して

しまい跡を継ぐものがいなくなっただとか、幼子と若い妻を残したまま戦死しただとか、数え上げればきりがないほど

悲惨な話が残っています。私の叔父(父の弟)もインドネシアからニューギニア方面に転戦になりそれきり消息をたって

おります。戦死の通告だけで、遺骨もありません。魂は本当に安らかなのでしょうか。

 南方の島々での悲惨な体験は大岡昇平の「野火」という小説で、映画にもなりましたので、あるいはご存じの方も

あるかと思います。事実も小説と同じであったようです。熱帯雨林の中での戦争で後方からの支援もなく、相次いで

倒れていく仲間の死体を食いあさることもあったという、まるで地獄絵を見るような悲惨な戦争だったようです。

 私の叔父も、そんな体験をしたのだと思うと、何とも言えない悲しさと腹立たしさを覚えます。勝ち目のない、何の

利益もない戦争を時の政府と軍部の上層にいる一部の突出した人達だけによって引き起こされ、その上戦争で

多くの人が傷つき倒れ、親子が引き裂かれ、無念の思いを残して死んでいったのです。

 そしてあろう事か、この戦争を引き起こした多くの人達は戦後をのうのうと生きながらえたのです。こんな不公平が

あって良いのでしょうか。先日も陸軍の将校だったという人に話を聞きました。徴兵検査を受ける時、軍医に袖の下を

持っていった人は兵役免除となり家に帰ったというのです。金持ちの師弟の多くとはいわないまでも、こうして兵役を

免れた人がいるのではないでしょうか。貧しい農家は大切な働き手を戦地にとられ、戦争の後押しをしてきたお金持ち

は金を使って兵役を免れる。こんな馬鹿な話があって良いのでしょうか。しかし、これが戦争の現実の姿なのです。

 多くの有為の人は真剣に国の将来を憂えて、戦地の赴いたとは思います。しかし、こうして過去を振り返ってみると

その当時では見えなかった不公平や理不尽さが見てくるのです。

不幸を繰り返すな!!

 何の理由があろうとも戦争はしてはいけない、させてはいけない。身近な例ではコソボ問題です。ミロセビッチという

政治家と、クリントンというベトナム戦争のがれをしたと言われている政治家の戦争の悲惨さを知らない者同士の

戦争ごっこにしか見えてこないのです。政治家や軍人らの浅はかな判断や、意地の張り合いや、愚にも付かない思惑が、

結局、国民自身を塗炭の苦しみに追いやっているのです。

 私達は政治に対して正しく目を見開かなくてはならないと思います。そうしないと再び同じような苦しみを味合うことに

なるでしょう。そして、持っていれば使いたくなる銃や拳銃のように、軍備はあれば必ず使いたくなるものなのです。

軍人というものは、国を守るとか国民を守るという崇高な思想以前に、軍事力というものを背景にして常に政治や国民に

無言の圧力をかけています。それが軍人の思考であり、思想です。

 あるが故に使いたくなる。だからない方が良いのです。日本人は戦争を放棄した国民です。それを憲法に掲げています。

大変誇らしいことです。

 かって核戦争直前までいったキューバ危機という大きな事件がありました。当時のアメリカ大統領は、あの有名な

ケネディでした。彼は核戦争が地球を滅ぼすことになることを知っていて、真剣に戦争を回避することに努力しました。

キューバの背景にいる旧ソ連と全面対決だと、はやる軍部を押さえ押さえて平和解決に持っていきました。その頃の

大統領府における生々しい軍部とのやりとりが、克明に録音されており、先日NHKで放映されました。いかに軍隊を

押さえることが難しいか、一人の大統領と圧倒的な軍隊という組織の対決、あるいはそれは、ソ連との直接交渉より

難しかった事かもしれません。

                                                 2002年4月7日修正

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