活弁(出会いの不思議)

 どうやら私達夫婦には思いがけない展開が待っているような予感がしてならない。それは

活弁という古くて新しい文化に出会ってからである。活弁については、人と人との出会いの

不思議さについて書いたとき少し触れたことはあるが、活弁そのものについて書くのは今回

が始めてである。

 そもそも活弁とは何なのかという説明から入らなければならない。昔々、その昔、映画なる

ものが日本に入ってきた頃は活動大写真などと呼んでいた。写真でさえ珍しい時代に、その

写真に写っている人物や動物や景色までもが動いて見えることに人々は驚いたに違いない。

 しかし、誰が考えたのか活動大写真をただ見ているだけではつまらないと、画面の説明や

登場人物の台詞を入れたのが活弁の始まりだと言われている。この説明や台詞に音楽が

入ると、それまでの無声映画が一段と面白いものになった。単なる珍しいものから、ある種の

芸術、大衆演芸となったようである。

 元々、日本には浪曲や講談、落語という大衆芸能があった。こうした語りの文化を背景に

活弁が始まり一挙に芸能的価値が高まったものと思われる。こうして活動写真を大衆演芸

として不動の地位に押し上げたのが「活動弁士」達であった。独特の語り口調は大人気を

博し、多くのスターが誕生した。

 また、素人ながらも活弁士の真似事をする人まで現れた。その一人が、先年亡くなられた

活弁士「松田完一」さんであった。そして、無声映画の大スターとして登場したのが「目玉の

松ちゃん」こと「尾上松之助」であった。これまた岡山が生んだ映画俳優であった。

 私が活弁と出会ったのは遠い昔の夢の中であった。夢の中なので現実に見たとは思えない

のだが、何かしら遠い昔に何処かで見たような気がしてならないのだ。従って、弁士独特の

語り口調を真似することも出来る。

 その活弁に思いがけないところで再会(?)したのである。それが三年前に乗ったピース

ボートの中でのことであった。どのような経緯から「佐々木亜希子」なる女性活弁士が乗船した

のか定かではないが、水先案内人として乗ってきた。

 そして、思わず彼女の主催するワークショップに飛び込んだのだ。洋画のワンシーンに自由

に台詞を付けてよろしいという企画だった。後込みしている人達を後目に一番に手を挙げた

のが私だった。そして、それに負けじとばかり二番目に手を挙げたのが私の家内だった。

こうして私達夫婦が掛け合い漫才の如く笑いを取った後、場の空気がなごんだのか次々に

手を挙げる人が出てきた。しかし、私にはもう一つ勉強しておきたいことがあり、活弁のワーク

ショップの方は残念ながら一度きりで断念してしまった。

 断念はしたものの、いつまでも未練が残っていた。そして、船を降りてから早速、私の住んで

いる街でも、この楽しさを実現したいと思い立ったのだ。誰一人、活弁なるものを知る人はなく

私の思いだけが先走りしていた。

 そんな中でただ一人、私の思いを理解してくれる友がいた。それが児島文化協会の事務局長

であるK君だった。彼もまた大の映画好きであった。中学生の頃には映画館から映画館へと

フィルムを運ぶ仕事をしていた。また、その仕事が高じて映写機の操作までしていたと言うから

大したものである。

 二つ返事でやってみようとGOサインを出してくれたが、実はそれからが大変だった。そもそも

東京から、ここ倉敷市児島まで来て貰うにしても費用がかかる上、彼女があるプロダクションに

所属していることさえ知らなかったのだ。何度も電話をしたが、話はいっこうに進展しなかった。

どこの馬の骨か分からないものの話などプロダクションの責任者は眉唾物だと思っていたに

違いない。ただ期日だけが迫っていた。

 しかし、一度、開催を約束したものを、そう簡単に取り下げるわけにはいかなかった。半ば

板挟みのような状態であった。会場に関しては当初、児島公民館を予定していた。しかし、

映写機が壊れていて使えないと言うことで、急遽、会場を変更しなければならなくなった。

そんなせっぱ詰まった状況の中から浮上してきたのが瀬戸大橋架橋記念館の地下ホールを

借りようと言う案だった。ここは元々、映画を上映するための施設であり、古いながらも映写機

があった。夏の暑い日に交渉に行った。館長も担当者も気安く了解をしてくれた。こうして場所

の問題がやっと解決した。

 しかし、問題は肝心な映画フィルムであり活弁士であった。にいくら支払えば来てくれるのか

未だ決まってはいなかった。これは入場者数と入場料金との関係もあった。初めての企画に

幾らならみんな見に来てくれるのだろう。満席になったとしても高々150席足らずである。

お金の不足分はどうする。悩みは尽きなかった。

 こんな状況を打開するため思い切って直接交渉のため上京することにした。安宿を女房に

探して貰い、プロダクションの責任者と佐々木亜希子さんに直接会って話をする事にしたので

あった。

 その時、泊まったのが山手線鶯谷駅近くのホテルパインヒル鶯谷であった。こんな偶然も

あるのだろうか。そのホテルのロビーは佐々木さん達が東京で活弁を始めたとき、常時使って

いた打合せの場所だった。そして、このホテルの真ん前が活弁を行っていた映画館であった。

この話を二人から聞いたとき、巡り合わせの不思議さのようなものを感じた。

 公演費用は初回であることと、責任者Y氏の特別な配慮もあって格安料金で来てくれること

になった。

 こうして第一回目の児島活弁シネマライブは大きく動き出したのであった。二度目の昨年は

二人の力強い援助者を得て大きく飛躍することになった。映写機も16ミリでは入場者数に限界

があり、大型画面用のプロジェクターを使うことにした。そしてフィルムもDVDに置き換わった。

こうして会場を児島文化センターに移し、大画面での鑑賞が可能になったのであった。

 入場整理券が500枚、実入場者が370名という、この種の催し物としては他に例を見ない

大きなものになったのである。この時、Y氏と二人だけで話をする機会を得た。実は児島に

来るまでは、地方公演の経験がなかったこと。また、フィルムの提供を受けていたM映画社

と何かとトラブルが多かったこと。プロダクションとしても大きな壁にぶつかったような状態で

あったようだ。しかし、わずかに150名とは言え、都心を離れ地方で成功したことが大きな

弾みになって一挙に地方公演が増えたと話していた。それを聞いて私としても面目を施した

ような思いであった。

 そして、この時おまけのような出来事もあった。実は第1回目のとき佐々木さんは我が家に

宿泊した。その際、家内が彼女を倉敷の美観地区を案内した。美観地区で出会ったのが

手作りペンダントを売っていた甲怒緑郎さんであった。甲怒さんのペンダントは時計の歯車を

加工したものであった。その形がフィルムのリールに良く似ていることから佐々木さんの目に

留まったようだ。実は甲怒さんの祖父は活動写真の時代、楽団でヴァイオリンを弾いていた

とのことであった。活弁士佐々木亜希子と活動写真の楽団員の孫という奇遇とも言うべき巡り

合わせであった。

 その甲怒さんを翌年にも私達が47回のピースボートの仲間を連れて美観地区を歩いている

とき見かけたのだった。それは佐々木さんからもう一度会いたいので連絡が付かないかという

相談があったばかりの時であった。あまりにもタイミングが良すぎるので驚いた。彼に早速、

今年も佐々木亜希子が来ること。彼女が会いたがっていることを伝えると、ぜひ会場に伺い

たいとの返事を貰った。

 そして、昨年の第二回目の児島活弁シネマライブの日、甲怒さんは東京に行かなければ

ならないと言うのに、わざわざ会場まで駆けつけてくれたのだった。手には手作りの真新しい

手作りのペンダントが握られていた。

 今、岡山映画祭では昨年亡くなられた松田完一さんの遺徳を偲んで無声映画「豪傑児雷也」

が上映される事になっている。児雷也には岡山が生んだ偉大な映画俳優「尾上松之助」が

演じていた。松田さんが生前ずっと「尾上松之助」の映画をぜひ地元で上映したいと言って

いた遺志を汲んでのことであった。

 その無声映画に活弁で台詞を付けてくれと言うのが私達夫婦への要求であった。如何に

船の上での経験があるとは言え、二人とも全くの素人である。その私達に果たして出来る

であろうか。はなはだ怪しいものである。

 先日、久々に上京することになった。息子の婚約者のご両親に挨拶をするためにである。

上京する度に47回クルーズの仲間達との再会が年中行事のようになっている。今回も「活弁」

や「しゃべり場」の仲間達と再会した。実は5月には「しゃべり場」の仲間達とは京都で会って

いたのだが、その時、ピースボートスタッフであったアメリカ人のS君が国へ帰ると言うことを

聞いたので送別会を兼ねての再会であった。

 そして、もう一つの集まりが活弁仲間の集まりであった。一年間をかけてやってきたという

ワークショップの発表会であった。一人一人が幾つもの短編を語り、また、映画のワンカットを

幾つかのパターンで語りと、手を変え品を変えての語り口は非常に面白く無声映画の活用の

仕方として大いに参考になった。

 実は、ここでも多くの出会いがあった。船の中以来、一度も会ったことのない人が幾人か

来ていたし、船の中で友人になった女性達のお母さんも来られていた。ともあれ、活弁は

多くの出会いを作り、奇跡を起こしてきた。これからも活弁マジックは続くような気がして

ならない。どんな活弁マジックが待ち受けているのだろう。私の映画好きは今、形を変えて

大きな展開を見せようとしている。

                                       2007年8月1日掲載

社会作りのページへ戻る

ホームへ戻る