先日久しぶりに神辺の街を歩いてみた。同窓会の打ち上げの時以来である。

その時も駅から会場までであったから、街の中を歩いたとは言えないほどの距離だった。

今回の神辺行きの目的は、平野に住んでいる叔父に、僕らのおじいさんやおばあさん、あるいは、それ以前の先祖に

ついての話を聞くのが目的であった。

そのついでに、神辺がどう変わっているのか、思い出を辿りながら、要所要所をカメラに収めたかったのである。

時間が短かったので、写真に収めることが出来たのはほんの一部だったが、それでも思い出の糸をたぐり寄せるには

十分であった。

神辺の旧市街地は今も昔も変わらないように思えた。それというのも旧道は旧山陽道時代のままであり、これ以上

発展しようのないくらい家が建て込んでいる。従って市街地の再開発を行うよりは、田圃をつぶして新しい街を作る方が

手っ取り早い。そんな訳で、高屋川の川向こう、昔は一面の田圃であったところが埋め立てられ、大きな道が出来

新しい市街化地域として発展をしている。高屋川の堤防に立てば見渡す限りの田圃であったという昔の景色は想像も

つかない位の変貌ぶりである。その分、旧市街地は昔の姿を今もとどめている。

  

風呂屋に続く細い道、田圃であったところも埋め立てられている。

右は本陣(大名の宿泊した所)

私は風呂屋に通った道のほとりに立ってみた。ここは来る日も来る日も母と弟と一緒に風呂屋に通った道である。

風呂屋の方向に向かって左手には小さな川が流れている。昔からどぶ川であった。しかし、うわ水は不思議に澄んで

いて、川魚やオタマジャクシなども住んでいた。春には黄色の花や紫色のスミレなども咲いていた。

右手には田圃があり、その向こうにはお寺があった。細いたんぼ道であった。

川一つ隔てたこんもりとした木立の中は昔本陣だったところで、邸内には古い倉や大いちょうの木が立っていて、

いかにも時代を感じさせるような古い屋敷の風情だった。ちなみに本陣の息子S君はぼくの同級生だった。

そこから程ないところにかんけん座が建っていた。今は取り壊されて跡地は整地されていた。当時の姿をとどめて

いるのは入り口へと続く石段だけである。

かんけん座の跡地

かんけん座から坂道を少し上ったところは高屋川である。そして、かけの橋に出る。この橋は戦国時代、湯野の

茶臼山と神辺の黄葉山との間に戦があった時、両方の陣営から射た矢が、この場所で掛けの字になって落下したと

言うことから、この名が付いたという言い伝えがあり、何か出来過ぎた話のような気もするのだが。

ともあれ、この橋は今も地域住民にとっては重要な橋であり、僕らが子供の頃のままである。

  

左は掛けの橋、右は高屋川の今の姿とダイセンボウの橋が小さく見える。

この橋から更に川を上流に遡ったところにダイセンボウの橋がある。この橋は昔から木製で独特の構造をした

橋であった。子供の頃にも何度か新規に掛け替えた事がある。大八車がやっと渡れる程度の狭い道幅の橋であった。

子供の頃、何度この橋を行き来した事であろう。夏になれば川も干上がってしまい、無理に橋を渡ることはない橋なの

だが、その季節以外は、やはり重要な生活のための橋であった。

今でも幾度となく、この橋の夢を見る。僕らは夏になると、この橋から川に飛び込んで遊んでいた。

川は片山病の関係で本来遊泳禁止であった。にもかかわらず僕らは平気で遊んでいた。親たちも黙認していた。

川には割れた瓶のかけらなども捨てられていたから、飛び込んで大けがをした者もいた。

堤防には牛が長いロープをつけられて放し飼いにされていた。傘屋さんの傘も干していた。終戦直後には畑にもなっていた。

僕の家もわずかな間、畑を作っていて、父と一緒に畑に行って遊んでいた。その時、幼い弟が川に落ちて、父があわてて

飛び込んで助けたと言うこともあった。その頃から弟は魚が好きで、川や池に良く落ちていた。後に、父が手相見に

弟のことを占って貰ったら、この子には水難の相があると言われ、当たっていると言って、しきりに感心していた。

川は格好の洗濯場でもあった。川魚を釣ったり、取って食べていた。この辺り一帯の田圃は、みんな高屋側の水を

使っていたし、多くを高屋川に依存して生活していた。

今の高屋側は黒くよどんだ流れのない川になっている。かつてのような面影はどこにもない。田圃の少なくなった現代

最早、池や川は必要ないと言うのだろうか。

かんけん座の通りを降りたところ、メイン道路と交差するところの左手に薬局があった。同級生のF君の家である。

  

左は藤井薬局だった家、右は料亭「福海」

今は入り口の戸を堅く下ろしている。右手は本陣である。T字路となった正面は福海と言う料亭である。

建物は今も昔と変わらない。立派な料亭のたたずまいである。

このあたりは三日市と言い、参勤交代の頃には三のつく日に市が立っていたのであろう。

旧山陽道の面影を今もとどめる町並みである。

右本陣と三日市通り  旧山陽道である。

僕は車を堤防の上の道縁に置いて、堤防を下りてみた。そこいら一体は天宝一(造り酒屋)の裏手に当たるところである。

僕らが子供の頃、遊んだ懐かしいところである。こうして見ると、小さなグランドにも満たないような狭い土地であるが、

子供の頃には広い広い遊び場であった。

  

左も右も僕らの遊び場所だった所、右の建物の付近には蚊取りヤンマがたくさんいた。

荒神さんがあり、お薬師さんがあった。大人になって改めて眺めてみると、

神社の境内とも言えないような小さな場所であるが、ここが僕らの遊び場だった。缶けりをし、石けりをし、てんかをし、

マーブルの三角出しや、天登りをして遊んだ場所である。もちろん、紙メンコもして遊んだところである。

荒神さんの庭と石垣、小さな空間だが子供の頃には紙芝居なども来ていた。

近くを流れる高屋川の支流には、鬼やんまや、蚊取りやんまや、お歯黒トンボがたくさんいた。高屋川のほとりには

季節になると蛍がたくさん飛び回っていた。いくら捕まえても、毎年、絶えることはないほどのたくさんの蛍がいた。

夏の頃、堤防に寝ころんで空を見上げると、降るような星空が広がっていた。いくつもの流れ星を数えることが出来た。

遠くの山並みには稲妻が光り、忘れた頃に小さく地鳴りのような音がした。田植えの終わった田圃は蛙の大合唱であった。

土手に上がる細い道と菅の裏手、子供の頃のままだ。

小さな川にもハエやフナや、ザリガニやずがにがたくさんいて、大水が出る頃になると、隣のおじさんが梁をかけて

ずがに(爪に毛の生えたカニ)を捕っていた。

荒神さんは今も昔のままに残っている。お薬師さんは先年、このあたりを幼なじみと歩いた時に、丁度取り壊されて

いる最中だった。今は小さなお社となって建て替えられている。

お薬師さんの庭、伊勢の太神楽も来て曲芸をやっていた。

お薬師さんの隣が大黒屋という食堂であった。そのとなり、荒神さんと背中合わせの道路に面したところに八百屋が

あった。僕の一年先輩のYさんの家だった。この八百屋は、この地域に住むものにとっては、かけがえのない存在だった。

狭い店内には所狭しと、乾物や野菜や果物が並んでいた。そしてハエがたくさんたかっていた。これが食べ物屋の

普通に見かける姿だった。母が自分の里に桃を送るのはこの店で買ったものだった。大黒屋の前は万屋だった。

清掃車の向こうが八百屋だったところ、今は小さな空き地が残っている。

金物を中心に釣り道具なども置いていた。先輩のSさんの家だった。その更に隣は文房具屋のAさんの家だった。

この店も学用品には欠かせないノートや鉛筆と、何かとお世話になった家だった。特に絵が好きだった僕にとっては

絵筆や絵の具等を買うのは、いつもこの店だった。

この家の裏手は畑になっていて、僕の住んでいた長屋の前だった。おじさんがひがな畑仕事をしていた。

畑には野菜だけでなく、花もたくさん植えていた。こんな広い畑が家の近くにある事をうらやましく思っていた。

文房具屋の道を挟んで斜め前は下駄屋だった。僕らより後輩のY君がいた。その隣が造り酒屋「天宝一」の表玄関

だった。ここには小早川文吾旧宅とある。どういう人物であったのか、機会があれば歴史を紐解いてみたいと思っている。

  

左は造り酒屋「天宝一」、昔は脇本陣だった。

ここから反対側の上手に行ったところに散髪屋があり、その隣はガラス屋だった。ガラス屋の道向かいには「八仙」と

言う造り酒屋があった。僕らが住んでいた五軒長屋の裏手は、この造り酒屋の高い大きな壁であった。

僕らが住んでいた五軒長屋の跡地

ガラス屋の隣は谷口屋、茶山饅頭を今も売っている。先年亡くなった同級生のS君の家である。一般家庭にテレビが

ない頃、S君の家でテレビを見るのが何より楽しみだった。月光仮面が全盛期の頃の事である。

もちろん白黒テレビの時代だった。谷口屋の前は薬屋、隣は菅茶山ゆかりの廉塾のあったところである。

Sさんと言う先輩が管茶山直系の子孫であった。余談になるが、菅茶山は頼山陽とも交流のあった人で、当時廉塾と

言えば多くの知識人が出入りをしたところである。菅茶山は江戸時代末期、多くの著名人と交流のあった人である。

小さく見えるのが廉塾、手前が僕らがラジオ体操をしていた空き地。

茶山邸の敷地には大きな古い楠があり、その下は広場になっていた。僕らは夏休みになると、ここでラジオ体操を

していた。地域の世話好きなおじさんが、毎年、朝顔を垣根のようにして、朝晩欠かさず水やりをしていた。

僕らは夏休みの間中、朝顔のほとりで、眠い目をこすりながらラジオ体操をしていた。僕は六年生になると部落会長

に選ばれ、みんなの前に立たなければならなかった。そんな訳で、だらしなくするわけにはいかず、その頃の習慣が

今も残っていて、今でも、会社での朝のラジオ体操は、手足をきちんと伸ばした模範的なスタイルでやっている。

「三つ子の魂百までも」のとおりである。

ラジオ体操の広場の前は金物屋だった。単なる金物屋さんとは異なり機械関係の部品を沢山置いていた。

神辺には織物工場が多かったのでそれらの部品を置いていたのではないだろうか。

廉塾の敷地を挟んで川が流れている。その隣は魚屋さんだった。同級生で仲の良かったH君の家だった。写真屋も

やっていた。こんな景色がずっと続いていた。今でも自転車やさん、粉やさん、種物やさん、薬局と、当時の町並みを

鮮やかに思い出すことが出来る。ここらあたり一帯を七日市という。三日市と同じように市が立っていたところである。

七日市の通り(旧山陽道)

七日市のずっと上手に古市がある。真っ直ぐな高屋川が大きく方向を変えるところである。ここには古い水門が

残っている。一説によると、高屋川の堤防が氾濫した水で決壊をしないようにするため、ここに水門を設け川水を

古市から上手の平野(ひらの)に流し込んで川の流れを少しでも緩和しようとするためのものだったようだ。

もちろん、僕らが子供の頃には一度もそう言う事はなかったが、上手を犠牲にして下手の街を守るというための仕掛

けだったと聞いている。いつの時代に作り、どんな時その決断を下したのであろうか。実際に使われたことがあるのだろうか。

今もその当時の名残をとどめる石組みが残っている。

   

古市と平野の境にある水門跡の石垣、この周辺には関所もあったという話だが。

従って、高屋川の長い堤防は、ここでぷつんと切れている。その付け根のところに神辺の上水道の汲み上げ井戸がある。

今回は平野に住んでいるインターネットを通じて知り合いになった友人からも貴重な神辺の写真を提供していただいた。

それと私が写して帰った写真を掲載している。友人に感謝しつつ、子供の頃の思い出、第二作目としたい。

                                               2000年6月25日掲載

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