この地球が末永く我々のものであり続けるためには、我々自身も犠牲を払わなければならない。

経済はあくまで道具であり、生活の全てではない。経済成長と環境とが共存できるものであるならば、それに越した

ことはない。しかし、それが無理なことであれば、経済成長が落ちることもやむをえないのではないだろうか。私達が

生きてゆく環境こそは、かけがえのない最も大切なものである。

先日も会社で話題になったことなのだが、倉敷や岡山市周辺の山林や、遠くは高梁川の上流域の山林にまで、

おびただしいゴミや産業廃棄物が投棄され、埋め立てられているらしい。聞くだに恐ろしい現実が、高梁川水系の

色んなところに存在するようだ。

どんなものが投棄され埋め立てられているのかは定かではない。中には夜中に運び込まれているものもあると

言うから、その恐ろしさは想像にあまりある。高梁川は田圃や畑の灌漑だけではなく、私達の生活用水として飲み水

にも使われている。水は遠く新見の奥や矢掛など倉敷周辺の山林からも流れ込んでおり、山林に降った雨は必ず

地下水となって、いつかは高梁川に流れ出してくるに違いないのである。

日中は目にすることのない煙が、夜になると月をも覆うばかりの黒煙となって吐き出されている。足守や玉島周辺の

山林の中での出来事である。日中は目立つから夜になって燃やしているのである。恐らくは燃やすのにはばかられる

ようなものに違いないのである。こうして私達が出したゴミは、一見合法的にも思えるような方法で、市や県の許可を

得て処理をされている。しかし、常に現場を監視しているわけではないし、夜な夜な燃やされるゴミにはどんなものが

あるのか誰も知らないのである。

しかし、いずれは我々自身に跳ね返ってくることであるに違いない。えてして私達は報道され、事件にならないと

見過ごしていることが多い。行政も許可を出すまでは慎重であるが、豊島の産廃問題にもあったように、後は野と

なれ山となれである。かけがえのない自然を一部の業者に委ねておいて本当に良いのだろうか。彼等にとて言い分

はあるはずだ。「おまえ達が出した行き場のないゴミを処分してやっているのは俺達だぞ」と。その通りである。

私達も行政もさわりたくないところや見たくないものは他にまかせ、知らぬ顔をしているのである。いわば臭いもの

には蓋をしているのである。

もっと私達一人一人が自分自身の生活を見直して、真剣にゴミ問題、産廃問題に取り組まなければ、被害はます

ます拡大する一方である。また、ものを生産する企業自身にも使われたものがどうなるか位の見極めと、責任を負う

必要があるのではないだろうか。作り放し、売り放しではいけない。先日の新聞には電器メーカーの中には回収費を

上乗せをして販売に踏み切る事にしたという記事が出ていた。遅きに失する感は免れないが、それでもやらないより

はましである。電器製品のみならず、全ての商品に広がってゆくことを期待する。私達消費者もそれくらいの経済的

負担は負わなければならないのではないだろうか。最早、良いとこ取りは許されないのである。販売も過剰包装は

やめて出来るだけシンプルにしたいものである。

たとえ新製品を作る方がコストは安くとも、リサイクルできるものは新製品と混ぜ合わせて使うなど、捨てない工夫を

しなければならない。

そして何よりも大切なことは、私達一人一人がものを大切にして、ゴミを出さないような工夫をする事が必要である。

そのためには、たとえ生活レベルを落としてでも、あるいは経済成長が低下しても我慢をしなければいけないのでは

ないだろうか。そして、私達の子や孫のために末永く地球環境を守っていくことが、私達の努めではないだろうか。

                                                 2000年9月15日掲載

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