私が、この記事を書き始めて日が浅いというのに、最近、より一層、幼児虐待(児童虐待)いう言葉が、色んな場面から

飛び込んでくるようになってきました。

事態はそれだけ深刻さを増してきているからだと思います。単純に、子育てに疲れた母親の問題と言うほど簡単な

ものではなさそうで、今の世の中の混乱を、そのまま映し出しているような気がしてなりません。

父親が子供を折檻した挙げ句、死に至らしめるというケースの場合、父親自身が勤め先をリストラされるという

大きなストレスを抱えており、持って行き場のない不安や苛立ちが、子供の折檻という形で現れていると言う

ケースもあるようです。

結局、社会不安や生活苦と言ったようなものは、いつの時代も一番弱いもののところへしわ寄せとなっていきます。

こういった今の混乱した社会情勢を、正常な方向に持っていかない限り、根本的な解決にはならないことも、

一方にはあるような気がして、ここにあえて加筆しました。                 1999.11.13加筆

幼児虐待は時代のせいなのか。

子育てに疲れた母親が、子供を折檻したあげく、死に至らしめるという事件が後を絶たない。

そして最近では若い父親が子供を折檻の上、死に至らしめるという事件も相次いでいる。

いったい、いつの頃からそうなってきたのであろうか。統計的にもここ数年、加速度的に増えていると言われている。

アメリカなども、早くからこういった事件が起きていたようで、そういった意味では、日本にもついに同じ様な

時代が、やってきたのかという気もしないではないが、果たして、アメリカと同じ次元で考えて良いのだろうか。

虐待をする母親の中には、子育てに一生懸命のあまり、精神的に行き詰まってしまい、どうして良いか分から

なくなって、気が付いた時は、子供を殺してしまっていたということも少なくないようだ。

あるいは、母親自身も幼児時代に虐待を受け、それが心の傷となって、知らず知らずに我が子にも同じ様な

事をしていた等、こんなケースは本当に気の毒としか言いようがない。

親たちの都合で子供が犠牲になっている。

すべての人が子供時代、幸せだった人ばかりではない。最近の離婚率を見ていると、大人達の都合で子供達に

大きな犠牲を強いているのではないだろうか。

大人だけの勝手な行動で、子供達の生活が踏みにじられているのである。

今日の状況は、戦争中両親を亡くしたり、お父さんが兵隊にとられて戦死したというケースとは訳が違う。

子供達は、その辺の事情を良く知っている。もっともお父さんとお母さんが喧嘩しながら一緒にいるよりも、

かえって別れた方が、子供達にとっても幸せというケースもあるだろう。

しかし多くの場合、子供達には何故なのか、理由の分からないままに片親と引き裂かれたり、兄弟と別れ別れに

なったり、厳しい経済生活を余儀なくされたり、寂しい思いをするようなケースがはるかに多いと思う。

このような心に暗い陰を持った子供達が増えてきている。いきおい、非行に走る子が増えてきても不思議ではない。

学校から親のいない暗い家に帰っても、寂しい思いをするだけだから、ほんの一時でも気をまぎらわせるために、

繁華街でたむろする。それが非行の始まりとなる。そんなケースも多いのではないだろうか。

もちろん、中にはまじめで親思いの子供もいて、親の苦労を少しでも軽くしたいと、一生懸命親孝行をしている子も

いるだろう。しかし、私達の子供の頃のように、戦争で親を亡くしたという時代とは、時代が違う。豊かで何でも

手に入る時代は、周りが良ければ良いほど、自分の欲求が強くなるのは当たり前のことだといえる。

そんな訳で、今後は犯罪や非行のみならず、幼児虐待や子育てを放棄するような若い親たちが増えるのでは

ないだろうか。

無気力で無軌道な子供達

家庭で躾(しつけ)をされない子供達の躾は、全て学校任せということになってしまう。学校崩壊とか学級崩壊

とかいわれていることも、確かに教師の側にも問題はあるだろう。しかし、それ以上に、家庭の側に問題はない

のだろうか。家庭での躾は、きちんとなされているのだろうか。真剣に考えてみたいと思う。

孤独な老人のひとり住まい

最近、私の身の回りでも、一人住まいの老人が、誰にも看取られることなく死んだという話を良く耳にする。

おじいさんが死んで、後を追うようにおばあさんも死んだとか。今は元気だけれども、一人住まいという人も

結構多い。それでも、近所に親戚でもあれば幸いだが、それもないときには、結局、孤独死ということも

あり得るわけで、最近の核家族化の犠牲だろう。やはり、死ぬときぐらいは、家族に看取られながら死んでいきたい。

孤独死とはあまりにも寂しすぎる。

古きよき時代へ戻れ

老人の孤独死と子育てに疲れた若い母親、私はここに両方の問題の解決の糸口があるように思える。

大家族、それはそれで疲れることもあるだろうが、人間にとって自然なありようと言える。かつて自然が驚異で

あった頃、あるいは食料を手に入れることが困難であった時代は、集団で行動する事が唯一の生き残りの手段で

あった。集団の中に経験豊かな長老がいて、長老を中心に集団や家族が構成されていた。一見、現代の世の中

にはその必要性がないように見えるが、人間が発達してきた過程を振り返ってみると、ついこの間まで、みんな

そうやって生きてきた。

私が子供の頃は、隣近所も家族の延長線上にあった。隣近所と、ものの貸し借りや、子育てや、悩みも苦労も

共に分け合って生きてきた時代があった。子供の泣き声を聞くと、両隣から、おばさん達が駆けつけて、

親と子の仲を取りなしてくれた。夫婦喧嘩をしていると、しっかり者のおばあさんがやって来て、夫婦の和解の

労をとってくれた。こうして、お互いに助けたり助けられたりしながら生きてきた。

解決の道は見いだせる。

−孤独な老人と子育てに疲れた若いママ−

核家族化してきて以来、随分になるが、隣近所は遠い存在となり、それぞれの家族はますます孤立化している。

身よりのないお年寄りと孤独な子育てママ、何とかならないのだろうか。

一緒に住むことは出来ないだろうが、両方が接触出来るような場を作ってはどうかと私は考えている。

老人は老人だけの集会所というのではなく、老人と乳幼児の集会所を隣同士に建ててみる。初めの内、接触は

なくても、同じところへ行き来していたら、そのうち話を交わすような事もあるだろう。お互いがお互いの存在を

自覚するようになるだろう。そして、老人が亡くなれば、人の死というものを、いやがおうにも自覚して、人の死と

いうものがどういうものか、子供達にも分かるはずだ。人の命の大切さを知ることになるのではなかろうか。

そんな貴重な経験を、お互いがすることによって、孤立化した社会に少しでも、人間らしい温かさが戻り、

幼児虐待や青少年の非行、あるいは老人の孤独死が少なくなればと思うのである。

この記事を読んで下さった方にも是非、ご意見をお聞きしたい。


補充記事

1999年12月11日追記

私が望んでいたような施設が倉敷に出来ました。高齢者施設と保育園の合体した施設です。園児達が高齢者

施設を訪れて、毎日のように高齢者の人達と交流をしています。子供達にはお年寄りをいたわる優しい心が育ち、

高齢者の方には、元気のいい子供達の姿を見て生きる喜びや、子供達から元気がもらえると言って喜んでおられます。

保育園の方では当初、お年寄りが疲れるのではないかと懸念していたようですが、そんな心配は全くなく、交流回数を

初めの計画より増やしているそうです。大変ホットで嬉しい話題です。

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