このページに加筆文を掲載したのが2006年の1月であったから、既に5年の歳月

が流れたことになる。

 2004年に定年で会社を去り、その年に大型客船で地球一周の旅をするという

得難い体験をした。以降、悠々自適の生活を5年間続けてきた。

 この間に相も変わらぬ政争と相も変わらぬ金や物に執着した人間の醜い争いや、

果てはあるまじき殺人までもが多発している。いったい人間はどこまで落ちてしまえば

この愚かさに気付くのであろうか。

 こうした間にも人間の果てしない欲望は止まることを知らず、その先にあったのは

気候変動という自然界からの手痛いしっぺ返しであった。それにも関わらず世界的な

協調関係は得られず先進国も開発途上国も競って地下資源を買いあさり二酸化炭素

の排出量は増える一方である。

 そんな中にあって2011年は日本史上に於ける特筆すべき年であった。3月11日、

突然のごとく巨大地震は東日本の太平洋側を襲った。そして地震に続いて未曾有の

巨大津波が沿岸地方一帯を襲った。

 それだけでも大変なことなのに福島県の福島第一原発では冷却系統の制御が

出来なくなり原子炉は暴走し水素爆発を生ずるという信じられないような大事故と

なった。もしやこんなこともと一部の間ではずっと懸念され続けてきたことが現実の

ものとなったのである。あり得ないと思うようなことも時には現実のことになるのである。

それがよもや私の生きている間に起きようとは・・・・。

 その唐突とも思えるような大災害や大事故は、私達が全力を上げて取り組んでいた

「最後の五匹」という、今の世を予言でもするようなミュージカルの本公演を間近に

控えていた時であった。底冷えのする春まだ浅い3月、原発事故の報道を聞いたとき、

と言うより私の場合は原発の制御電源が完全に失われたと報じられた時と言った

方が適切かも知れない。その時に、とんでもない大事件になるのではないかと心密かに

胸の動悸が高鳴るのを覚えた。

 事実、それからさしたる時を置くことなく原発は轟音を上げて大爆発した。原因は

原子炉建屋内に充満した水素に火がついたためと報じられた。原子炉の中では

最も恐れていたメルトダウンが生じていたのだった。建屋のむき出しになった鉄骨が

飴のように曲がり爆発のすさまじさを物語っていた。

 瞬く間に高濃度の放射能を含んだチリは周辺に広がり低気圧の中で雨となって

各地を汚染してしまった。このまま推移すれば東京までもが住めなくなるのでは

ないかと懸念された。今も雨水には放射能が混ざり汚水処理場で濃縮され続けて

いる。今後、被災地の福島県を始め広範囲な汚染地帯でどのような現象が生じて

くるのか誰にも皆目検討が付かない。

 今回の大地震と大津波は私達にどんな教訓を残したのであろうか。過去の何度かの

大津波は沿岸地帯の危険性を警告していた。そして巨大な防波堤を湾内や沿岸に

巡らせていた。

 それにも関わらず津波は易々と海岸一帯を飲み込んでいった。多くの方々が犠牲と

なられた。亡くなられた人、生き残った人、まさに運命としか思えないような厳しい

選別であった。何が生き残るものと亡くなるものとの仕分けを行ったのだろうか。

人知を越えたものが働いているような気がしてならない。

 生き残ったものにとって亡くなったものより過酷な運命が待っているかも知れない。

また、生涯過酷な運命を背負って生きていくことになるかも知れない。それは誰にも

分からない。

 このように被災者の過酷な運命から学ぶことは多い。それにも関わらず、変わる

ことなく人の争いや殺人は多く、お金や物に取り憑かれたものは目覚めていない。

好い加減に気付いても良さそうなものであるが、生き地獄の中にいるものの目には

何も見えていないのであろうか。人間の悲しい性(さが)だとしか言いようがない。

いつの時代も変わらぬ人間の性である。

 さて、そんな時代にあって新しい命の芽生えもあった。長男夫婦に待望の赤ちゃんが

誕生した。昨年の10月のことである。インターネットを通してみる赤ちゃんの笑顔や

喃語と呼ばれている言葉にならぬ物言いが実に可愛い。どんな過酷な時代でも生命の

誕生はあり、人の変わらぬ営みもある。

 そして私にも特筆すべき事件があった。昨年の8月からフルタイムで勤務し始めた

ことである。勤務先は児島市民交流センターである。この施設は地域に住むものに

とって待望の施設であった。

 文字通り市民交流の施設として連日多くの人が出入りしている。一方が交流棟、

これはかつての巨大なドーム型の建物「瀬戸大橋架橋記念館」の内装を変えた

ものである。そして隣接する図書館ホール棟、これは新築の建物である。

 三階建ての建物の一階と二階は図書館、そして三階はジーンズホールと言う

300弱の席が備わったホールである。充実した図書館には従来の図書館に比較し

1.5倍の人が出入りするようになったと言われている。

 さて、私はこれらの建物の管理を行うものとして指定管理者の指名を受けるまでの間、

この施設を請け負うに当たっての申請業務に携わってきた。そして指定管理者として

指名されてからは、施設を運営するものの一人として勤務している。

 この施設は文字通り地域の中核となる施設である。そして街づくりや観光と産業の

活性化のために活用すべき建物でもある。そうした仕掛け人と言ったところが私の

仕事であろうか。漠然とではあるが定年後のあこがれにも似た仕事であっただけに、

悠々自適の生活を捨てて参加することになった。

 運命というものはかくも変化に富んだものなのであろうか。今更ながら自分の運命の

変化に驚くばかりである。そして人生の長い道のりは、あることのために準備されて

いる道なのではないかと思うことさえある。それほど魅力的であって面白い。

 今は様々な人との出会いが面白く不思議なことも多い。先日も唐突に地元のFM

放送局から自分の番組を一枠持たないかという話が舞い込んできた。私の何をして

そのような話になったのか理解出来にくいのであるが、このような事が頻々として

起きている。

 あの人に会いたい、こんな人がいればいいのに等と考えていると、ある日、突然

そんな人が現れたりすることも珍しくはなくなった。そうした人との巡り合わせに

ついて、その人の話を色々聞いてみると様々な人を介しての古くから縁故関係が

あったり、過去に何らかの繋がりのあった人であることも珍しくないのである。

 過去にも書いたことがあるが、人生はあらかじめその人のために準備されている

「一人舞台」ではないのかという確信をますます深めている昨今である。そして人は

その舞台で生涯を演じて幕を閉じる、そんな気がしてならないのである。

                               2012年2月17日追記
 

人生は川の流れのように」という自己紹介のための文章を書いて数年が過ぎてしまいました。

その間、私の定年退職という人生の節目とも言うべき大きなイベントがありました。そして、時を

置かずにピースボートという船に乗り地球一周の旅に出ました。行く先々の観光は元より、船の

中での多くの出会いが私の人生の大きな収穫でした。

 人の世は人と人の繋がりこそ財産です。有り余るほどのお金を持っていても、いつも心寂しい

人は意外に多いものです。私達があの世に持っていけるのは心の中に蓄えた財産だけです。

そのことを人間は何故考えようとはしないのでしょうか。

 景気は長く厳しい冬の時代からやっと明るさが見え始めたと言われています。その途端に、

再びバブル期のような動きが見えます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とは人間の愚かさを良く

言い表しています。インターネット時代になって新しいタイプのお金持ちが増えてきました。中に

は株を買収して会社を我がものにしたいと考えるような人も出てきました。「奢れるもの久しから

ず」あの栄華を誇った平家一門ですら時の流れの中でもろくも崩れていきました。

 変わらぬ愚かさは人間の本性なのでしょうか。幾多の文明が頂点を極めたときから崩壊が始

まっています。これから二十年、私が生きていればの話ですが、どんな世の中になっているの

でしょうか。その二十年後は一月四日に生まれた初孫が成人式を迎える年です。彼の人生に

幸多かれと祈る他はありません。

                                       2006年1月6日加筆

 実に時の流れは早く、定年後も5年を経過しました。長らく家と会社の往復を続けていた私に

とって、地元とは縁の薄い関係でしかありませんでした。

 一方、ボランティア活動の多くは地域との繋がりの中で行われるものです。何を行うにしても

地域との繋がりのない私にとっては、どこから手を付けて良いか分からないような状態でした。

色んな会合や集会に顔を出すことから色んな方々との出会いがあり、活動のきっかけが出来

て来ました。

 その一つが今年の3月の倉敷瀬戸ライオンズクラブの30周年記念講演ではなかったかと

思います。この講演のきっかけとなったのは、ほんの一年ほど前の出会いからです。名刺交換

はしたもののなかなか顔と名前が一致せず、やっと最近になって、街で出会っても気軽に話が

出きるようになりました。「石の上にも三年」と言いますが、やはり三年はかかりました。

 そして、過去の出会いや経験の全てが、今日の活動のために準備されていたのではないか

と思えるようになったのです。人生は筋書きのないドラマのように見えますが、その実、本人が

知らないか自覚していないだけで、この世に誕生するときには準備されていたことではないの

かと、確信を持って言えるようになったのです。

 人生は自分が主役の壮大なドラマなのです。どのように演じようが、それはその人に全て

任されています。上手く演ずる必要はないのです。ただ正直に飾らずに、演じ続ければ良い

のだと思っています。                        2010年4月15日追記

(以下の文章は定年前に書いたものです。私の思いは数年前も今も変わっていません。参考に読んでみて下さい。)

人生は川の流れのように

 長期にわたり今日のようなどん底の苦しみを味わうことになるとは誰が予測しえたでしょうか。

すべてが拡大基調の中で浮かれていました。世の中には山もあれば必ず谷もあることを忘れ

ていました。

 あわただしく日々が明け暮れていきます。人生という時の流れは、あまりにもはかなく短いも

のです。昭和38年工業高校を卒業し、社会に出て35年が過ぎました。あっという間の35年間

のようでもあり、長い長い35年間でもあったような気がしています。この間、日本経済の山も谷

も経験したことになります。大げさに言えば天国と地獄を見てきたことになります。

 歌は世につれ、世は歌につれと言います。歌はその時代その時代を映しており、私達の心の

支えとなり応援歌となって生き続けています。私達高校生の頃は舟木一夫が歌った「高校三年

生」が大ヒットしていました。丁度高校の修学旅行の頃の事でした。

 その頃は学校を卒業したら大阪や東京へ出ていくのが夢でした。「有楽町で会いましょう」とい

う歌のイメージに東京の生活をだぶらせていました。オリンピックが東京であり、万博が大阪で

あり、札幌で冬のオリンピックがありました。田中角栄氏が言い始めた列島改造がブルトーザ

ーの如く日本列島を駆けめぐっていました。石油ショックやドルショックも経験しましたが、それ

でも挫折することなく立ち上がり、それをバネに大きく成長を続けてきました。

 アメリカの核の傘の下という表現のように、アメリカの軍事力を国防の盾として軍事力に金を

つぎ込んだ戦前とは対照的に、ひたすら経済力をつけるために力を注いできました。金が金を

生むというアメリカ経済の上をいくような不思議な体験に、みんな浮かれ浮かれていました。

 私達が子供の頃、百万円と言えばサラリーマンが一生働いてやっと手にすることが出来るよ

うな大金でした。それが、2000億、3000億と聞いても驚かないくらい金の単位は膨らみ、ま

さに風船を思い切り膨らませたように世の中には水膨れの金があふれていました。ほんの7年

ほど前の話でした。

 それも阪神大震災の頃が、大きな分岐点になったような気がしてなりません。少しかげりが見

えてきた日本経済も今までの経験であれば、その内だんだん良くなるさ位に思っていましたが、

良くなるどころか、ますます悪くなる一方でした。銀行にも不良債権があふれ、バブルの立て役

者だった山一証券が倒産し多くの銀行が倒産していきました。阪神大震災の復興が経済の建

て直しのバネになるなどという単純なものではなかったのです。

 戦前、「俺は河原の枯れススキ」と歌われた時代が、経済のどん底で暗く憂鬱な時代であった

ように、就職浪人があふれ、なお、長銀のような問題が尾を引いています。経済界もやっと目が

覚め発想の転換だ、今までの延長線上でものを考えるな、今までと同じことをするのは悪だと

まで言っています。

 何もかもが遅すぎたように思います。何故、あの絶頂期に何か変だと気付く人がいなかった

のか、疑問を抱く人がいなかったのか不思議でなりません。私は人にも話し、何かの時に書い

たこともありますが、アメリカのウオール街(日本で言えば兜町)を背景にした映画を観た時に、

金で金を生むなどと言うことが、当たり前と言うことは、絶対にあり得ないと確信しました。それ

までにも常に疑問を抱いていたことでした。それが当たり前のことならば、誰も、汗水垂らして

仕事をする気になどなれないと思ったからです。お金は苦労して稼ぐものです。それも必要な

だけあれば良いのです。

 今日の状況は一日も早く抜け出して堅実な経済状態へ戻したいものです。しかし容易には戻

りそうもありません。今日の経験は天罰という他はありません。

 美空ひばりさんが晩年にヒットさせた「川の流れのように」という歌がありますが、この歌には

人生の哀歓を感じさせるものがあります。歌にその人自身の人生を重ね合わせて歌っている

からでしょうか。人間はどんなに栄光を浴びていても、何故かむなしく寂しい思いを抱くものの

ようです。ましてや美空ひばりさんのように、歌手として頂点に立った人には頂点に立った人に

しか経験し得ないような、寂しさやむなしさがあったに違いないと思うのです。

 焼け跡から今日に至る戦後にヒットした歌の数々は、まさに日本人のその時代、その時代の

人の心を反映していたように思います。そして、肉親が亡くなり、彼女自身も病に倒れ、「川の

流れのように」を口ずさむようにして昭和とともにこの世を去っていきました。

 人生は長く生きても70年か80年です。浮き沈みもあります。私達も又、学校を卒業し、社会

に出て高度経済成長のまっただ中で青春時代を過ごし、やがて社会の第一線から退く日の近

い今日まで生きてきました。私達の20才代から30才代にかけては日本の激動の時代でした。

安保闘争、ベトナム反戦、三井三池の闘争、新日窒水俣闘争等、総労働対総資本という、時の

政府をも巻き込んだ大きな労働争議が相次ぎました。

 私達はこういった騒然とした社会状況の中で少なからず何らかの形で影響を受けながら、酒

が入れば右だ左だという論争に明け暮れていました。涙もろくて曲がったことが嫌い、人が困っ

ていると何とかして上げたい。そんな性格がいつしか労働運動、社会主義運動へと飛び込むき

っかけを作り、二十歳の頃から労働運動、社会主義運動に約25年間、四半世紀の間、会社

での仕事(化学会社における電気の仕事)とともに過ごして来ました。

 その間、地域の青年運動の中で多くの友が出来、家内とも知り合い結婚しました。後輩達に

道を譲って10年間余が過ぎようとしています。あっという間の10年間だったような気がします。

私が労働運動、社会主義運動から遠ざかるのと呼応するかのように、世の中、わけても労働

運動、社会主義運動も大きく変わってしまいました。日本社会党が長年対立してきた自民党と

席を共にするなどという晴天の霹靂のような事態も生じました。

 私の人生におけるひとつの時代が終わったように、日本にとっても戦後という、ひとつの時代

が終わったように思います。第二次世界大戦さなかに生まれ、戦後の貧困の中の中で幼児期

を過ごし、まさに戦後の日本の復興発展と共に人生を過ごしてきました。私のいままで歩んで

きた道は、私自身にとって大変貴重な経験の数々でした。人間は決して一人では生きていけま

せん。私自身も、いままで多くの人のお世話になり支えられて生きてきました。いつか恩返しが

出来る日のあることを思っています。出来れば私のささやかな人生経験が役に立つ機会があ

ればお役に立ちたいと思っています。

家族と住まい

家族は家内と一男一女(それぞれ独立しました)、そして義母の5人家族です。私を支えてくれ

るよい家族です。

                                 筆者近影(2002年3月撮影)


住んでいるところ

 私が住んでいるところは倉敷市です。倉敷といえばすぐに蔵屋敷の建ち並ぶ町並みを想像さ

れると思いますが、同じ倉敷でもずっと海よりの児島というところです。その児島の上の町とい

うところ由加山蓮台寺まで車で10分位のところです。周辺は山です。その山裾に民家が建ち

並んでいます。

 夏は由加山から降りてきたヒグラシの鳴き声などが聞こえる静かなところです。私の作ってい

る果樹畑からは瀬戸内海や瀬戸大橋、四国まで遠望出来ます。だからといってけっして田舎

ではありません。買い物にも駅にも近く便利なところです。

 児島は 繊維産業の盛んな街です。学生服、ユニホーム、ジーンズ、ファッション性の高いもの

など色んなものを生産しています。由加山蓮台寺はかって、金比羅参りの人達が両参りといっ

て金比羅参りの際は必ず立ち寄ったという名刹です。遠くは関西方面にまでも多くの人々の信

仰を集めた有名なお寺です。

家の周りの景色

 我が家の入り口には大きな桜の木があります。我が家のシンボルツリーです。毎年見事な花

を咲かせます。樹齢は40年位でしょうか、木の大きさからすれば樹齢7、80年にも見えます。

家内の母が植えたものです。

(この桜の木は数年前に大きな枝を切ったことが災いして年を追う毎に弱り来年の花を見るこ

とは出来ないのではないかという状態になっています。2006年1月現在)

 この近辺の事を地元の人は山根といいます。文字通り山が間近に迫った小さな谷間に集落

があります。谷を横に抜けると又違う谷筋に出ます。北側の谷筋が池尻、由加山へ行く道路が

通っています。南側の谷筋は中田地区、ここにも細い道沿いに集落があります。

 果樹を植えているところは小高い丘となっています。畑に立つと遠くに讃岐富士や瀬戸大橋

の橋脚の先端部分が見えます。大変見晴らしの良いところです。

                    家の裏山から見た由加山方面の春の景色です。


「私の戒めの言葉」

奢れる者久しからず

私は平家物語の最初に出てくる、この言葉を私自身の戒めの言葉としています

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわ

す。奢れる者久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ。偏に風の

前の塵に同じ。

 いつの世も人間は頂点を極めると、自分自身が見えなくなり間違いを犯し、自ら傷つき倒れ、

また別の者がとってかわるということを、幾度となく繰り返してきました。おろかという他はありま

せん。

 わたしも五十七歳という人生の折り返し点に立ち、これからどう生きるべきかを考えています。

体力の衰えはひしひしと感じています。寿命が延びたとは言え、体力は落ち視力も落ち、信長

の時代の「人生五十年」というのは、今も昔も変わらないような気がします。

 私も奢ることなく、しっかりと大地を踏みしめ正面を見据えて、これからの人生を生きていきた

いと考えています。

                                              2002年4月7日修正


児島見所,味どころ

ここをクリックすると児島見所,味どころのページに行きます。

 このページでは児島観光の目玉とも言うべき所を紹介していきます。児島は倉敷市街地から

離れているせいか、案外訪れる人は少ないようです。是非一度お越し下さい。そして観光で疲

れたら児島の味どころで思う存分、瀬戸の味を堪能されてはいかがでしょうか。


元の勤務先:日本合成化学工業(株)

水島事業所水島工場

 私はもともと電気屋です。電気設備の設計や保守管理が仕事でした。定年前にはその仕事

を離れて気苦労の多い仕事をしていました。

 日本合成は熊本、大垣にも工場があります。本社は大阪です。水島工場では繊維やフィルム

の原料であるポバールやソアノールといった樹脂を作っています。他の事業所では塗料や電子

材料や医薬品等の原料も作っています。

 委託生産としてアトピー性皮膚炎などに効果のある健康補助食品なども作っています。健康

に気を使っておられる方は、是非おためし下さい。日本合成のホームページには詳しい情報を

載せています。              

関心がおありの方は私のリンク集上の日本合成化学工業の所をクリックして下さい。

上の見出しの部分か下の写真をクリックするとリンク集にいけます。

工場の周りの景色

 工場は長い堤防をはさんで呼松港に面しています。呼松は歴史のある古い港町です。港の

後ろは山になっています。細い路地を挟んで港町特有の家が軒を接するように建っています。

 工場の正門に立つと真向かいに、この山が見え、四季折々の美しい姿を見せてくれます。春

は梅からはじまり、桜へと移って行きます。秋は櫨紅葉の紅葉と桜の紅葉が山裾を彩ります。

工場を正門から写真にとると、この山が背景となり、あたかも山裾に工場があるかのように見

えます。

 呼松港の由来を詳しくは知りませんが、私達が工場に赴任してきた頃には、港の入り口の小

さな島に枝振りの良い立派な松の木がありました。港に出入りする船にとっては目印になるよ

うな松の木であったようです。

                      真ん中の水路(呼松港)を挟んで手前が呼松という集落、その向かい側が

                      日本合成水島事業所、背後にある山の周辺が松江という集落

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