蟹江ぎんさんが亡くなった。百八歳との事だった。昨年、双子の姉妹である姉のきんさんが

亡くなった。きんさん、ぎんさんは明治生まれの女性である。ぎんさんは実に、三世紀にまた

がって生きてきた人である。

 百歳を越えると言うことさえ、まれな事であるのに、姉妹揃ってと言うのは実に珍しい。

その上、名前が、きんとぎんと言うのであるから、これほど、おめでたいことはない。

百歳を越えた頃から、一躍マスコミに取り上げられ、名古屋弁丸出しの独特の口調は、

二人の愛らしさと相まって、一躍、茶の間の人気者になってしまった。

 決して、ユーモアを忘れず、みんなにサービスを振りまいた二人の回りには、いつも笑い

があった。この二人の姿に励まされたり、元気づけられた人は実に多いのではないだろうか。

お二人の冥福を、心からお祈りしたい。

 二人が生きてきた時代は、決して、生やさしい時代ではなかった筈だ。ましてや、二人は

裕福な家庭に生まれた訳ではなく、小学校も下の兄弟達の子守や面倒をみながら、交代で

通ったと言うから、勉強も満足には出来ないような環境だったに違いない。それでも、明るさ

を失わず、たくましく生きてきたのは、明治人の気丈さなのか、あるいは、名古屋人のたくま

しさなのであろうか。

 この二人を見る時に、老いると言うことは、かくあるべきではないかと強く感じるのである。

高齢化社会となり、ぼけたり、動けない人が増えている中で、百歳を越えてなお、健康で

ぼけもせずに、大往生をとげたという事は、実にうらやましい限りである。ぼけや寝たきりは

必ずしも、その人の責任ではないが、やはり、生きて行くからには、かくありたいと思うのは

私だけであろうか。

 私が所属している俳句の会には、大勢の先輩の方々が来ておられる。中でも、最長老は

先生御自身である。私の父が生きていれば、先生の年齢ぐらいであろうか。先日、少し体調

をくずされ、手術を受けられたが、今は元気に復帰して来られた。先生は何よりも気丈である。

今なお、素晴らしい句を作られたり、私達の愚作を添削して下さっている。

 私と一緒に勉強しておられる多くの方は女性である。それぞれに事情もあり、連れ合いを

亡くされた方も少なくない。中には、御主人が入院されたとか、御主人のぼけが始まって

勉強を継続できなくなったとか、娘の御主人が亡くなって、それがショックで続ける気力が

なくなってしまったとか、この年齢になると、多くの人に様々な事情が生じてくるようだ。そんな

訳で、一人増えては一人辞めていくような状況で、会員数も一進一退を続けている。

 年を取ってくると、なかなか同じ生活を持続していく事は難しそうだ。一方が健康であれば、

他方が病気であるとか、年取っての夫婦の生活には、常に脆さがつきまとっている。従って、

夫婦揃って旅行に出かけるような事は、何はさておいても、若く健康な時に実行しておく方が

良いのではないかと思うのである。年を取って落ち着いてから等と考えていたのでは、絶対に

その機会は訪れないような気がするのである。旅行好きな夫婦ならば、子供達に手が掛から

なくなったら、お二人が元気な内に実行することをお勧めしたい。

 さて、本論に入ろう。私は子供の頃から、生きると言うことは、いったいどう言うことなのだろう。

自分という存在は、いったい何だろう。死んだら、いったいどうなるのだろう。等と、おおよそ

子供らしからぬ事を考えては、眠れない夜を過ごした事がある。本当に、自分という存在が

今あるのは、どう言うことなのだろうか。この自分という存在は、実在しているのだろうか。

今の全ては、長い長い夢なのではないだろうか。夢から覚めたら、別の自分という存在が

あるのではないだろうか。自分で自分の事を考えると言うことが、何かとりとめもない迷路に

迷い込んだようで、不思議な感覚に陥ってくる。そして、子供の時の疑問は、未だに解き明か

されないままである。

 では、ぼけてしまったらどうなるのだろうか。私の身近にもボケ老人がいた。おそらくは、自分と

いうものの存在を、死ぬまで意識することはなかったのではないだろうか。しかし、外見的には

普通の人と変わらない。子供の頃のことは、良く覚えているのも、これらの症状の特徴のようだ。

自分と言う存在の意識がなくて生きていくと言うことは、私には、とても耐えられそうにない。

しかし、考えて見ればそれすら自覚することはないのだから、それらの人にとっては、側で見て

いる程の哀れさも不甲斐なさもないのに違いない。私自身がこうなったら、潔く命を断ちたいと

念願している。しかし、それすらも意識がないと実行は出来ない。家族や周辺の人に迷惑を

かける、このような生き方が、果たして幸せな生き方といえるのだろうか。意識があって、体も

心も健康であって初めて、生きていることの喜びや楽しさがあるのではないだろうか。

 昔は身近に人の死を見て生きてきた。最近は親族であっても死に直面する事は少なくなって

きた。それだけに、死とは何か、人が死ぬと言うことはどう言うことなのか、実感を持って感じる

ことが少なくなってきた。死を体験するのは、映画であったり、テレビであったり、ゲームの中で

の体験でしかない。公園で寝ているホームレスを襲って殺したり、自分の子を虐待死させても

平然としている親などが増えてきた。死とは人間に限らず悲しいものである。ましてや、身近に

住んでいるものや、愛する者や肉親であれば尚更のことである。ゲームではない本当の人の

死というものを真剣に考えてみたいものである。

 死を考えれば必ず対極線上にある、生と言うものの意味に付いて考えざるを得ない。生きる

と言うことは、ただ漫然と日々を送れば良いと言うことではない。人として、それなりの生きる

意味があるはずだ。それは決して大それた事でなくても良い。子育てでも一生懸命働くことでも、

人のために尽くすことでも、まじめに自分と向き合って生きること、それ自体が大きな意味を

持っていると思う。近年の若者達の中には、生きることの理由や情熱を見いだせないで、ただ

漫然と日々を送っているような人が見受けられるようだ。本当に残念な事である。むしろ体に

ハンディを持っておられる人の方が、生きることに真剣であるのは何故なのだろうか。

 いずれは私自身もこの世を去る日がやってくる。おそらくは、死というものの意味がつかめ

ないままに、死んでいくことになるのではないだろうか。せめて自分自身というものの自覚が

ある間に、生きると言うことと、死と言うことについて、真剣に考えてみたいと思っている。

望むべくは、魂というものの存在があり、魂は永遠に不滅であることをも信じていたい。

そして、この世が次の世へのステップであって、自分自身の魂をより良いものにする為に、

生きているのだと思いたい。そして、この世を去るときには、生きてきて良かったと思いながら、

あの世に旅立ちたいと願っている。                2001年3月18日掲載

今の世を生きるのページへ戻る

ホームへ戻る