人の縁(えにし)とは

 最近、特に意識して運命とか人の縁について考えるようになった。そもそも男女の結びつきこそ人の

縁の最たるものであろう。恋愛結婚であろうと見合い結婚であろうと二人の出会いには運命を感じるし、

縁というものを抜きにしては考えられない。

 ここでは偶然とも思えるような出来事を通して人の縁について書いてみたいと思う。

梅荘(元 野崎家別荘)

 これがそもそも縁というものなのだろうか。野崎家の「たい暇堂」に引き続き、児島塩生にある別荘

「梅荘」を見学させて貰う機会を得た。事の経緯は以下の通りである。

 家内の祖父「毛利政多」は若い頃から野崎家に勤めていた。祖父は文学や芸術に秀でた人で、多くの

文化人との交流があった。野崎家が招待する文人墨客や自らも積極的にこれらの人を招待し交流を

深めていたようだ。数少ない遺品の中に、これら文人墨客の書き残した書や画がたくさん残っている。

 梅荘は野崎家が隆盛を極めていた頃建てられたようだ。当初は野崎家の別荘として建設を思い立った

らしいが、多くの建物が建てられ立派な庭が造られて今日のような姿になったらしい。建設後は当時の

著名な政治家等もここを訪れている。祖父「政多」が、この建物を清板家に売り渡すとき、その辺の経緯

について「梅荘の縁起」に書き残している。

 私は今回、児島公民館講座「児島の歴史」その二として「梅荘」を見学させて貰う機会を得た。その講座

資料の中に祖父「政多」が書いた「梅荘の縁起」という文が紹介されていた。そして、その文の末尾に祖父

「政多」の署名があるのを見て驚いた。

 実は、「梅荘」の見学前にこんな事があったからだ。私の手元には、祖父「政多」が愛用していた「奥の細道」

という古びた本がある。この本の表紙裏に祖父が書き残した文と短歌がある。その文の末尾に「大正十一年

一月二十五日通生梅荘に赴く道すがら」と記されていた。この本が残されている事を知ったのは、つい最近

の事であった。それだけに「梅荘」を見学する機会を得た事は、とても単なる偶然とは思えなかったのである。

 祖父は俳句や短歌を良くたしなんだ。その作品は祖父のスケッチブックやノートに走書きされているが、

まとまったものは残っていない。ただ、その才能が非凡であったと言うことは家内の叔母などから聞いている。

 祖父の足下には到底及ぶべくもないが、私も俳句を習っている関係上、縁浅からぬものを感じるのである。

「たい暇堂」といい「梅荘」といい、相次いで祖父が関わった建物二つを見学させて貰う機会を得たことに、

一度も会ったことのな祖父に対し不思議な親しみと人の縁を感じるのである。

 私は今、児島の郷土史家である大谷先生の案内で児島各所に点在する史跡について勉強をしている。

これは児島公民館が主催している「児島の歴史」という公民館講座の一つである。月一回の講座であるが、

毎回、大勢の人が参加している。

 その講座の二回目が5月19日の「通生尉(じょう)の墓、梅荘(清板家別荘)」であった。その昔、通生には

野崎家の大きな別荘があった。その別荘が「梅荘」であった。今は、清板さんのお父さんが買い取られ

清板家の別荘になっている。

 この建物は国道430号線の脇にあって、古びた茅葺屋根の一部しか見ることが出来ない。以前からここに

古い建物があることは知っていたのだが、まさか、この建物がこんなに規模の大きい立派なものであるとは

見学をさせて貰うまではまったく分からなかった。道路から見えていたのはほんの一部であったのだ。

 私が初めて目にした頃は、庭の手入れも行き届き建物の痛みも少なかったように記憶している。数十年の

歳月は全てを見る影もなくしてしまったように思える。現に、この建物の中に人は住んでいない。清板家の

人も一年の内、数回訪れるだけだと話しておられた。

 今回は御当主の清板さんにご無理をお願いして中を見学させて貰うことになった。この日は走り梅雨の

曇天であった。ただでさえ薄暗い部屋の中を一層暗くしていた。まず、入った玄関先の庭で清板さんから

簡単な説明を聞き中へ案内された。玄関も立派な建物であった。母屋の屋根は全てが茅葺きならぬ葦で

葺かれているそうだ。雨漏りがするらしく部屋の一部にはブルーシートが敷かれ洗面器が置かれていた。

お父上が在世中、一度屋根を葺き替えたそうで、その時には栗林公園の庵の屋根を葺き替えに来ていた

職人さんを呼んで修理して貰ったと話しておられた。既に、屋根を葺き替える材料も職人すら確保するのが

難しくなっている。しかも、金を惜しまずに建てた建物なので、屋根の修理費用だけでも家一軒が建つ位

だと苦笑されていた。これだけの文化遺産を個人で維持することの大変さを話しておられたのが印象的

だった。

 この日は倉敷市の教育委員会からも何名かの方が調査に来ておられた。清板さんは冗談とも本気とも

受け取れるような事を話しておられた。いっそ、うどん屋でも開業し皆さんに中を見て貰い維持費を捻出

したい。その言葉の裏に御当主の建物を維持しなければならないと言う思いと苦労がにじんでいた。

 内部は実に広く、600坪、20室はあるそうで、庭には空き地がないほど木々が密植していた。これら

庭木の手入れだけでも大変な費用が必要ではないだろうか。既に、一部の庭木は形がくずれるまでに

伸び放題となっていた。望むらくは、これだけ立派な建物だから公共のものとして維持存続が計られる

ようにならないものだろうか。このまま放置すれば早晩崩れ去るに違いないし、個人の財力ではとても

維持できないと思われるのである。既に裏庭の築地塀は一部が崩れ去っているし、テニスコートまで

あったという裏庭は荒れ放題となっていた。往時の姿の復元は無理としても、庭や建物が整備され、

多くの人が見学に訪れる日が来ることを祈っている。

    

国道430号線から見える細い道を入ると中には立派な葦葺きの建物が建っている。

大きな玄関を入ると和室があり、ここが母屋だろうか。

   

庭にはたくさんの木が植えられている。中には鳥たちが運んだ種が発芽して庭木になったものもあるそうだ。

右の写真はその庭から眺めた向かいの山である。この別荘が建てられた当時は桜が植えられていて

この庭の借景となっていた。

    

大きなつくばいも年代を感じさせる立派なものである。

また、離れに行く長い廊下は趣向を凝らした造りになっていて下は石畳となっている

    

客間に置かれた大きなテーブルには見事な彫刻が施されていた。

部屋の中から裏の方を見ると鬱蒼と茂った木々の中に蔵の屋根が見えていた。

    

客間には色んな額が掲げられていた。いずれも名のある書家が書いたものではないだろうか。

廊下の突き当たりには便所やお風呂といった水回りのものがあったようだ。

   

左の書には書家の雅号だろうか「薇山」とあり、右の書には平沼麒書と記されている。

地元出身の政治家、平沼麒一郎氏の書であろうか。

    

簡素だが立派な杉の一枚板に彫られた欄間の彫刻、また玄関の天井は屋久杉の節のない板が使われていた。

    

客間を庭から眺めたところ、これも名のある書家のものであろう大きな額であった。

    

これは離れになっている建物である。全てが凝った造りになっていて使われている材料は超一流のものばかりである。

祖父「政多」が書き残している赤松やサルスベリの木を使ったという庇は右のものであろうか。

細い部材ながら重い屋根を良く支えている。

    

茶釜の下の板や床の間の板は大きな一枚板である。金に糸目を付けずに購入したという逸品だそうだ。

合天井は素朴な造りながら、使われている材料は古さを感じさせない輝きを放っていた。

    

この襖に張られた錦は中国の古い時代ものを買って貼らせたとの事であった。

少しくすんではいるが痛みはなく金糸は輝きを失っていない。

和風建築でありながら窓にはこんなモダンな装飾も施されている。

        

部屋の外は瓦葺きのたたきになっている。そして、その外には立派な庭石が置かれていた

    

離れの屋根は寄せ棟になっている。瓦もこの建物のために焼かせたものが使われている。

暗い庭の一角には空池が造られていて、池の中には灯籠が置かれていた。

    

右の山は将軍山と呼ばれている。山頂には大きな岩が露出している。

この岩の一つを掘り出してここの庭石にしている。この山もまた庭の借景であったという。

また、山が見える裏庭に行く途中、一段と高い岩垣の上に庵のような建物があった。

しかし、痛みがひどくすぐにでも手入れが必要に思えた。

    

裏庭にはテニスコートがあったらしい。今は雑草に埋まったまま柿の木などが枝を伸ばしていた。

広い庭と建物を取り囲むように造られた築地塀だが、既に一部は崩れ落ちていた。

   

日露戦争当時、二百三高地の南山に見立てて戦勝記念に造らせたという石垣がある。

何でもないような岩垣であるが特殊な工法で築かれたものとか。(左の灯籠の奥にある岩垣)

こんな変わった形の灯籠も置かれていた。

    

客間を外から眺めたところ、そして玄関前の広場から眺めた建物の一部。

    

左の建物の下が玄関口になっている。

また、右の写真は玄関に続く前庭であるが、特に目を引く大きな石が置かれている。

これが将軍山の山頂から昼夜兼行で運び下ろされたという大石である。


 末尾に祖父が書き残した「梅荘の縁起」と「奥の細道」の本の表紙裏に書かれていた文を紹介しておく。

「梅荘の縁起」

野崎龍山武吉郎翁之を建つ 始め家族之海水浴之休憩所ニとて建設を想ひ立ちしが遂にかかる大規模

とハなりぬ 煎茶の大家文人画之才ある久我小年氏之監督ニよるものにて田邊碧堂氏(詩人)之命名

あり建築期間弐ヶ年余 

養真堂(本館)、清暉閣(裏座敷)、松軒(煎茶室)、石斎(離れ)半月窓、梅の窓、渉趣庵(あずま屋)、

笛舎六角堂、涛射(頭上)頂

将軍山(裏山故名)大松の下の祠ハ田村将軍をまつれる処 南山台運動場へ行く石山の前。当時

日露戦争にて南山を台領(占)せし際ニ命名す。

松軒の柱ハさるすべり或ハ赤松を用ふ 屋根瓦ハ京都ニて特製。入口の大岩ハ将軍山にありしものを

人力ニて昼夜兼行ニて運べ里

                          昭和二十六年一月 覚書 毛利政多  押印


祖父の愛読書「奥の細道」の表紙裏に書かれた短歌と添え書き

此日偶(思いがけなく)積雪四寸 通ひ馴れし山路とは云え衣に払ふ白雪の行くは山路のなだら道 流石に

たどたどしくも心もとなにとぞありける

然はあれ(そはあれ)此書 懐にしあれば 元禄のむかし奥羽一圓をを行脚せし芭蕉が事ども偲ばれて 

すずろときめく詩趣こそうれしかりけり

降る雪のうとく(疎く)なり来て厳々しき(神々しいという意味か)雪の遠山あらはれにける

大正十二年一月二十五日

通生梅荘に赴く道すがら    九坡

と書かれていた。九坡とは祖父の雅号である。

前文の意味は読んでいただければだいたいのことは分かると思うが、当時、児島味野から通生方面に行く

には白馬峠を越えたと聞いている。山路とはその峠越えの道ではないだろうか。山道には雪が積もっており

足下がおぼつかなかったようである。しかし、懐には愛読書であった松尾芭蕉の「奥の細道」あったので、

元禄の頃、奥羽一円を旅した芭蕉の事と重ね合わせて、心に感じるものがあったのではないだろうか。

祖父の心情が偲ばれる一文である。

そして短歌は判読が難しいところもあって正確ではないのだが、今まで激しく降っていた雪も小やみになり

目の前には神々しいほどの雪山が姿を現した。と言うような意味に受け取られるのだが如何。



野崎のたい暇堂

 当用漢字にもない「たい」と言う字は、しんにゅうに台と言う字を書く。そして「たい暇堂」(たいかどう)と言う。

建物は児島味野の野崎邸のすぐ側にある。長い築地塀の大きな建物である。この建物は塩田王の野崎家

の社交場であったようだ。私は以前から一度中に入ってみたいと思っていた。というのも家内の祖父である

毛利政多や亡くなった森山のおじさん達が出入りをしていた場所だと聞いていたからだ。 

 祖父「政多」の姉は味野で大きな料亭を切り盛りしていた。その関係から、この「たい暇堂」で行われる

大きな行事(新年会など)には、料亭の女将であるこのおばが裏方の采配をふるっていた。そんな関係

から毛利家にとっては縁浅からぬ場所であった。しかし、祖父「政多」が亡くなり、森山のおじさんが死んで

しまってからは世代も代わり縁が遠くなっていた。

 児島味野商店街は商店街活性化のために、女将さん連中が春と秋にイベントを行っている。その一つが

お雛まつりだ。お雛まつりの行事の一つとしてお雛様の同窓会と称するものが開かれた。その会場として

使われたのが「たい暇堂」である。お雛様の同窓会というのは、自宅にショーウインドウがない家のお雛様

を持ち寄って飾ったものである。今回は家内の叔母も展示していた。

 初日には備中神楽や邦楽の演奏会などが行われた。私達夫婦は招待券を貰っていたので「たい暇堂」の

見学方々行ってみた。その時に撮影したのが、下の写真である。大広間の脇には何室か控えの部屋が

ある外は建物の大半が大広間だけという豪壮な作りだった。百畳を越える大広間には掛け軸や額に表装

された幾つかの立派な絵が飾られていた。また、玄関には大きな日本人形が客を出迎えていた。

 大広間に面した広い庭には松を中心とする庭木がたくさん植えられ、小さな林の感を呈していた。そして、

庭の片隅には大きな空池があった。家内の母達が遠足で来た頃には満々と水が蓄えられていたそうだ。

庭の隅には立派な茶室もあった。

 大広間は百年を超えるような建物であるが少しの傷みもなかった。維持管理が良いこともあるのだろうが、

選りすぐりの材料が使われているからでもあろう。さすが塩田王と言われる人が建てた社交場であった。

                                               2004年6月25日掲載

        

大きな額にも飾り金具にも「たい暇堂」と書かれている。

    

長い廊下から庭を眺めるとまるで松林の中にいるような気がしてくる。

    

衝立や大きな掛け軸もお目出度いものが飾られていた。いずれ名のある画家が描いたものではないだろうか。

    

玄関では大きな日本人形が迎えてくれた。部屋の中央にはお雛祭りにちなんだ飾りが置かれ彩りを添えていた。

    

建物全体を外から眺めたところ、建物に少しのゆがみもなく古さを感じさせない。

広い庭の一角には茶室が建てられていた。

    

大きな段飾りがずらりと並んでいた。右は叔母が出展した雛飾り。

    

恵比寿、大黒に扮したお目出度い備中神楽。

そして叔母の社中によるお琴の演奏等も彩りを添えた。

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