公民館講座4

−般若心経を学ぶ−

文字数にすればわずかに二百六十二文字の経文である。この短い経文の中に人間いかに生きるべきかと言うことが

詳しく書かれている。私たちは仏教がこの国に入ってきて以来、様々な形で接してきた。それは知らず知らずのうちに

私たち自身の生活の中に深く根を下ろしている。

本来、仏教は死者を弔うためのものではなかった。もちろんチベット仏教に見られるように死者があの世に行って

うまく成仏をするように、新たに生を受ける時、迷わず人間界に戻ってくるようにとの願いを込めて唱えるお経もある。

しかし、多くは生きているもの達の苦しみを救い、生き生きとして人生を送ることが出来るようにと、そのための智慧を

与えていると言われている。

そして、そのもっとも凝縮されたものが般若心経だといわれている。今の世に生きるものは皆、生きるための目標を

失い、この世をさまよっている。未曾有の繁栄を築きながらも経済的に行き詰まり、物質のみが豊かになり、精神的

な荒廃は目を覆うばかりだ。こんな今の時代こそ般若心経の教えが本当に必要なのではあるまいか。

般若心経の解説には諸説があり、数多くの本が出版されている。どの本を読んでも構わないのだが、私が初めて

出会った解説書は石川県の永平寺に行った際、買い求めた小冊子であった。

以来、もっと知りたい、もっと詳しく聞いてみたいと思っていた矢先、今回の講座が開かれた。

正に望んでいたことがかなえられたわけで、これこそ仏の導きではないかと感謝している。

講座の内容は決して生やさしいものではなかった。よほど神経を集中して聞いていないと、大事なところを

ついつい聞き逃してしまう。

仏教は言うまでもなく、お釈迦様とその弟子達によって開かれた。そして、玄奘三蔵など中国の高僧達が持ち帰り、

サンスクリット語で書かれていた経文を、読みやすいように漢字に置き換え、その際に、新たな解釈も付け加えられ

て編纂されている。

中国からは鑑真和尚のような高僧が伝道のために海を越えて来たし、日本からも空海などの僧侶を中心とする

知識人達が仏教を学ぶために沢山中国に渡って行った。

先人達の命を懸けた情熱があったからこそ、今日まで伝わっているのである。その意味でも、貴重なものが今日まで

伝えられてきたことを心から感謝したい。

それではこれから少しばかり般若心経に触れてみたい。

般若心経は経文こそ短いが、人間いかに生きるべきかと言うことを書いている。人間の心を奥深くまで解析し、その

心に巣くう欲望や苦しみや悩みから解放されるべき方法を、こんこんと教え諭している。

余談になるが、この経文に書かれていることを見ると、お釈迦様が生きておられた頃の時代も、今の時代も、時代の

背景こそ異なるものの、人間そのものの本質は全く変化していないと言うことを強く感じるのである。

それはとりもなおさず、人間というものの本質は時代を経ても全く変わらないのだとも言えよう。

般若心経はけっして真っ向から、こうしなさい、ああしなさいとは言っていない。出来ることから一つ一つ実行しなさい。

やらなければと構えてやるのではなく、自然体でやるようにと教えているように私には解釈できるのである。

その教えは後に生まれた新興宗教と言われる金光教や天理教や生長の家と言った教えの中に断片的に生かされて

いるのではないでしょうか。(ラジオを通して解説されている内容の推察からですが)

人間が呼吸をするように、ごく自然に日常の中で実践することが大切だと言っています。

一例をあげると「人に施しをする」と言うことがあります。これは人にものをあげたり、親切な言葉をかけてあげる事

そのものではなく、そうすることが結局は自分自身のためなのですよと言っているのです。

四国霊場を回るとあちらこちらで接待をしてくれます。これ全て参拝者に対する施しを通して、奉仕者自らの心も洗い

清められるのだという教えから来ていることなのです。

人間は誰しも独りよがりなところを持っています。いかに相手のことを思いやっていると言っても、相手の心の中まで

推し量ることはできません。人間の心とは何でしょう。人間は物事を見るときに、それぞれの持つフィルターを通して

判断し、考え、記憶の中に納めてゆきます。そして他の事柄に遭遇したとき、再び同じフィールターを通して事に

当たろうとします。つまり、記憶にしまうときと、記憶から呼び出すときの二度同じ自己フィールターを行き交うことに

なるのです。フィルターが様々な煩悩や欲望で汚染されているとしたらどうでしょう。真っ直ぐなものも曲がって見える

のではないでしょうか。これほど人間というものは、何事をも素直には見えなくなっているのです。

それは欲望のままに生きてゆけば、ますますフィルターは汚れてきますから、年を取れば取るほど、どうにもならない

人間が出来てゆくと言うことになりはしないでしょうか。「おぎゃあ」と、この世に生を受けたときは純真無垢な心も、

時を経るに従って次第に汚れてくるのです。

だからこそ、人に施しをするという行動の中から、自らの汚れをぬぐい去る以外に方法はないのではないでしょうか。

「情けは人のためならず」。最近間違った解釈の方が横行していますが、真の意味は異なります。

人に情けをかけることは、とりもなおさず情けをかけようとしているあなた自身のためになることなのですよと言うこと

なのです。ゆめゆめ人から情けを受けようとか、人に情けをかければ、何か自分に良いことがお返しで来るのでは

ないかなどと、さもしい心を起こさないように気を付けましょう。無償の奉仕こそ、心の成長を願うあなた自身のものなのです。

とても奥の深い「般若心経」は、浅学非才の私には全てを理解し書くことは出来ません。般若心経の解説も解説者に

よって、それぞれに多少異なるようですが、多くの本が出版されています。みなさんも個々人で勉強してみてください。

私も煩悩の固まりのような人間です。勉強していく内に、一つ一つ思い当たることばかりです。

これからも勉強を続けてゆきたいと考えています。共に人間のあるべき姿に立ち返るために勉強してみましょう。    

                                                     合掌

                                                    2000年8月5日掲載

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