母の里 その2

 田舎の朝は早い。僕らが眠気まなこで台所に顔を出す頃には、おじさんやおばさんはすでに一仕事終えた後だった。

早い朝食を済ませて長い一日が始まる。

 僕らの一日は川遊びから始まった。小学校の低学年だった頃はもっぱら近くの小川が遊び場所であった。いとこを

先頭に近所の子供達と近くの小川でよく遊んだ。遊び場所は二カ所あったが、いずれの川もすぐ近くに迫った山から

の水が流れ込んでおり、きれいに澄んで飲めるような水であった。その上、井戸水のように温度が低い。従って、いくら

真夏とはいえ長くは入っていられない。水に入っては上がって大きな石の上に体を伏せて温まっていた。こうしないと

あまりの冷たさに見る見るうちに唇が紫色になってしまうのだ。

 こうして一時間ばかり遊んで家に帰るとおやつが待っていた。多くは畑で作ったスイカでありトウモロコシであった。

スイカも色んなスイカを作っていたようだった。大玉もあれば小玉スイカもあった。色も赤や黄色と色んな種類のもの

を作っていたようだ。トウモロコシは湯がいたものだった。

 おじさんや一番上のいとこ(年が離れていたのですでに青年であった)は鮎釣りの名人だった。鮎は宮川にたくさん

いた。宮川も家の近くの小川に負けないくらいの清流であった。河原には巨大な石がたくさん横たわっていた。上流

から押し流されてきた石である。屏風岩という名前の巨岩があった。近隣では知らぬ人はないくらいの有名な石で

あった。丁度平べったく屏風のように見えることからこんな名前が付いたらしい。岩のへこんだところにはたくさんの

岩松が付いていた。僕らが住んでいた神辺では見たこともないような植物だった。山奥の清流でしか見ることの

出来ない植物である。(近年園芸ブームでどこでもほとんど取り尽くされたようだ)

 おじさん達は箱メガネと細く短い竿の先に針を付けた仕掛けを持って川に入っていった。身を切るように冷たい水

の中である。その上、石は丸くコケが付いて滑りやすくなっている。そして大変な急流である。体を支えておくだけでも

大変な仕事だ。その中を箱メガネを口にくわえ流れに身を任せながら鮎を追う。追うと言っても鮎はそこら中にいる

のだが逃げ足は早い。狙った鮎をじりじりと追いつめ一瞬の間に鋭い針先で引っかける。すると竿先に付いていた

針ははずれて糸が伸びる。糸の根本にはひっかかりがあり竿からはずれないようになっている。急いでたぐらない

ようにゆっくり引き寄せる。30センチはあろうかというような大きな鮎がかかっている。こうして繰り返し繰り返し竿を

出しては引っかける。

 おじさんもいとこのお兄さんもこの近くでは引っかけ釣りの名人と言われた人だった。一度に30匹ばかり取って

きては私達に食べさせてくれた。今考えれば大変な贅沢であった。食べきれない鮎は火であぶって藁ずとに刺して

干していた。それは野菜を炊くときの出汁魚となった。

 同級生のいとこと僕と弟の三人は大の仲良しだった。行動はいつも一緒だった。ある日いとこがミミズを掘り始めた。

そのミミズを針金に通して短い竿の先に結びつけた。そして手網をもっていつも水遊びをしている川の少し上流に

行った。そこは鬱そうと杉や檜が茂る深い山の入り口だった。上流には大きなため池があった。そこから田圃に

水を引くための水路だった。水路はコンクリート製だったがあちらこちら壊れていた。その壊れた穴を捜してミミズの

付いた竿を差し込むと穴の中のものが餌のミミズを引っ張り込もうとしている。そっとたぐり寄せるとひげの一杯

生えた爪が見え始める。大きな蟹のようだ。引っぱり出した蟹を下から掬うと手網の中に見事な大きさのものが

入っていた。こうして都合二匹、夕方のほんのわずかな間に捕まえて家に帰った。おじさんが「ほー大きな蟹が

おったのう」と言って褒めてくれた。いとこと僕らは得意だった。

 早速、ご飯を炊いた残り火で焼いて貰った。澄み切った水に住む蟹である。何の臭みもなかった。蟹味噌も

きれいだった。真っ赤に焼けた蟹は本当においしかった。ただ大人のように器用には身を取り出すことは出来

なかったが、鮮やかに焼けた赤い色だった事だけが強く印象に残っている。この蟹は地方によっていろんな

呼び方があるようだが伊勢ではズガニと言っていた。

 伊勢の家の生活用水は山水だった。裏山の水路をせき止めてそこから家まで竹樋で流していた。竹樋は一本の

長さに限りがあったから幾本も掛け替えながら繋がっていた。先は何本かに分かれていて風呂にも外の流しにも

台所にも繋がっていた。台所の貯水槽に必要な時には台所まで引いている竹樋に掛け替えて流すようにすれば

良かった。水は絶えることなくいつでもどこかに流れ落ちていた。竹樋は長年の水の流れによって苔でびっしりと

覆われていた。上から眺めただけでは、それが竹製の樋であるとは思われないような状態だった。樋の中には

常にきれいな水がさらさらと流れていた。僕らは雨の日以外は朝起きると外の流しのところで顔を洗っていた。

水は冷たく長くは浸しておけないような状態であった。

 こうした伊勢での夏休みを小学校卒業までの間、3年毎くらいに繰り返していた。従って、6年間に三度くらいは

伊勢で過ごしたであろうか。一度位は父が迎えに来てくれたこともあったが、大抵親子三人おじさん達に三瀬谷駅

まで送って貰い、長い旅を続けて神辺を目指した。

 これは私の思い出のほんの一部分である。長い夏休みの日々は絵日記に書いて学校に提出したが、その後

どうなったのか定かではない。私の脳裏に残っているほんのわずかな部分を思い出として書いてみた。

 この頃、おじいさんはすでに隠居の身であり小鳥を飼ったり趣味の植物を盆栽にしたり、蜜蜂を飼ったり鶏を

飼っていた。おじいさんはなかなかの趣味人でもあり教養人でもあった。後に母から聞いた話ではお寺の住職など

とも交友があり仏教や哲学的な勉強もしていたという。もちろん幼い僕らにそんな事が分かろうはずはない。何と

なく近づきがたい人であったという印象は残っている。恐る恐るおじいさんの部屋に行っては小鳥などを珍しく

眺めていた。そんな孫の姿は可愛いものであったらしく無愛想な顔をしていたが話しかけてくる言葉は本当に

優しいおじいさんの声であった。

 おじいさんとおばあさんはよほど仲が良かったと見えていつも奥の隠居部屋にいた。おじいさんは若い頃から

器用な人で作業小屋を建てたり、鳥かごを作ったりとその出来映えはなかなか玄人はだしであった。そして近隣

からも一目置かれるような人物でもあったらしい。あるいはそんな存在感が近づき難い威厳のようなものを感じ

させていたのかも知れない。

                                                  2002年4月9日掲載

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