母許(ははがり)の里

山多き 母許の里 夏木立

 私は六月十六日、十七日と三重県多気郡大台町に行って来た。私の伯母が亡くなったからだ。

伯母は長く病床にあり、従兄弟の長男Y夫婦が面倒を見てきた。享年九十二歳であった。

 実は先日、新茶を送ってくれたのでお礼の電話をした時、肺炎で一時は危篤状態になり今入

院しているとの事だった。それから約四十日、六月十五日に息を引き取ったようだ。自宅での

寝たきり期間を合わせれば何年になるのだろう。従兄弟夫婦にとっては家業である農業をやり

ながらの看病であっただけに、その負担は計り知れないものがあったに違いない。実の親子で

さえも看病疲れから親を殺して自分も自殺を図るというケースも少なくない。ましてや嫁姑という

間柄であれば、ことさらの事ではなかったろうか。心からご苦労様と言わせて貰いたい。

 さて、その大台町は昨年の台風で大きな被害を受けた宮川村の下流にある。かつては三瀬

谷町と言っていた。私が小学生になったばかりの頃、母は私達幼子二人の手を引いて実家で

あるこの家に何度も里帰りしていた。里帰りの時には夏休みの間中、この家に寝泊まりさせて

貰っていた。その頃は母の両親も健在であった。そして家業は母の兄夫婦が引き継いでいた。

この家は主に林業の家であった。そして、お茶が換金作物の一つであった。お米や野菜は自

給自足程度のものだったのではないだろうか。

 しかし、従兄弟の長男であるYが話していたように、世の様変わりは田舎の生活を一変させて

しまった。重要な収入源であった杉や檜と言った材木が、輸入材に押され売れなくなってしまっ

たからだ。林業農家が先代から受け継いで入念な手入れを施してきた見事な杉や檜が、切り

出す手間賃の方が高くなってしまったのだ。この一帯には、既に出荷時期を過ぎた美材が切り

出されることなくたくさん残っている。せっかく祖父達が残してくれた財産も手つかずのままで眠

っているのだ。

 一方、田舎とは言え、どんなに始末をしたとしても生活費はそれなりに必要である。また、本来

なら山の管理や材木関係の仕事があるはずの、この町には材木が売れないために、これと言

った仕事もなく、家の跡継ぎもその他の若者達も町から遠く離れた都会へ出て行かざるを得な

くなっている。こんなバカな話があるだろうか。(これはこの地だけの事ではない)

 大台町には宮川という急流が流れている。ここに三瀬谷ダムが作られてからもう何年になる

だろうか。このダムの底には日本有数の清流が沈んでしまった。私達兄弟は幼かった従兄弟

達と何度となく、この川に遊びに行った。むろん急流なので川のほとりで遊んでいたに過ぎない。

また、川の中には色んな魚が泳いでいた。

 その中に川魚としては最も高級品である鮎がいた。叔父さんや従兄弟のYは鮎取りの名人だ

った。以前、このサイトでも紹介したことのある「引っかけ」という神業のような方法で、鮎を針の

先に引っかけては何匹も獲っていた。まさに天然鮎そのもので、大きなものは優に三十センチ

以上あったのではないだろうか。その鮎も他の多くの魚たちと一緒にダムの底に沈んでしまった。

 今回、このダムの下流には珍しく大木がなぎ倒され、更に流木が枝の付いたままの状態で何

十本となく岸に引っかかっていた。昨年の台風の時にはダムの堰堤を越えるほど水が溢れ、あ

わてて大放流をしたとのことであった。その際、堰堤の最上段を越えて流れ出たものらしい。水

の恐ろしさを感じる光景だった。

 私が着いた日は午前中まで雨だったようだ。西日本地方は空梅雨天気だったが、ここには

その心配もないようだ。この一帯は日本でも有数の多雨地帯だ。多雨で冷涼な気候はお茶の

生産に適している。従って、昔から伊勢のお茶として全国に販売されている。今も山に続く斜面

を利用してお茶の栽培が盛んに行われている。

 しかし、時代の波は山里の風景を変えてきた。かつて三瀬谷駅に着くと大きな材木の集荷場

があり、杉や檜の香りが漂っていた。しかし、今は貯木場もなく閑静な町はずれには大きな道路

が出来、その道の両側には、どこの町にもあるようなホームセンターやファミリーレストランなど

が並んでいた。こんな山深い田舎の生活も確実に変化の波が押し寄せているようだ。

   

JR紀勢線の三瀬谷駅、丁度上りと下りが一緒にプラットホームに入った。

   

紀勢線を跨ぐ跨線橋から写した写真、右の写真は小さな駅舎

   

かつて広い貯木場だったところは色んな建物が建ち、新しい町になっていた。線路を挟んで右側が旧市街地。

 駅に降り立ったときから何となく足元が気になっていた。よく見ると靴底がはがれていた。両方

ともだった。家を出るときは多少欠けている程度だったが、歩いている内に完全にはがれてしま

ったらしい。困った事になってしまった。とりあえずタクシーに乗り靴屋を探して貰ったが、あいに

く閉店だった。田舎町の事なので靴屋と言っても一軒しかなかった。それじゃあホームセンター

に行ってみようと言うことになった。ホームセンターには作業靴しかなかった。仕方がないので

接着剤を買って修理することにした。

 こうして懐かしい母の里に着いた。何年ぶりだろうか。しかし、昔変わらぬ景色だった。この家

のシンボルツリーであった大きな松の木はもう何年も前に枯れてしまっていた。ただ家の周囲

は昔と同じように背の高い槇の木の生け垣に囲まれていた。家の前は昔から畑であった。その

頃、この家に続く細い道の両脇には畑を囲むようにお茶の木が植えてあった。今は車の出入り

のために切ってしまったようだ。

 着いた日の晩はお通夜であった。すでに従兄弟や従兄弟の家族など大勢来ていた。みんな

久々に顔を合わせる人ばかりだ。しかし、従兄弟達とは久々に顔を合わせたのに、いつも顔を

合わせているように違和感もなく話をすることが出来た。みんな元気そうで何よりだ。簡単な食

事の後、早速、喪服に着替え席に着いた。近所の人が集まり、近くのお寺の住職がお経を読み

お通夜は終わった。お通夜は近所の人が主役なので私達親族は続きの間に控えていた。

 お通夜は午後七時過ぎから始まったので、終わったら夜もかなり更けていた。大半の従兄弟

やその家族は県内なので、これからそれぞれの家に帰ると言っていた。一番遠い家族が津市

だった。近所の人の見送りが済んで、みんなが引き上げたのは午後の九時過ぎだったろうか。

順番にお風呂に入り、パジャマに着替えると何となく落ち着いた。(風呂も昔は五右衛門風呂で

水は山水を竹の樋で引いていた。今は近代的な風呂になっていた)

 この日の晩、ここへ残ったのは従兄弟達の内、長男夫婦、長女、次男、そして私だった。あれ

ほどの賑わいが嘘のように静かだった。長男のYの晩酌に付き合って缶ビールを飲んだ。駅前

の宿に泊まらなくて良かった。久々の会話だった。みんなととりとめもない世間話をしながら夜

は更けた。明日の朝は早いと言うことで午後十一時頃には床についた。

 私は次男のTと一緒に伯母の遺体の側に寝た。幸い、Tはいびきをかかなかった。しかし、疲

れているはずなのに、なかなか寝付けなかった。浅い眠りで夜中に何度もトイレに起きた。翌朝、

みんなが起きるのは早かった。枕元の腕時計を見ると五時過ぎだった。もう少し寝ていたい気

もしたがお通夜であることを考えれば、あまり贅沢は言えなかった。

 翌朝八時が出棺だった。ここら辺の習慣なのか葬式の前に遺体は骨にしてしまうようだ。近所

の人が来てくれ出棺となった。私は多少ぶかぶかの従兄弟の靴を借りて履いていた。実は昨夜、

靴の修理をしようと靴底をみると修理は出来ないくらいぼろぼろになっていた。靴底は大きく欠

けて一部が完全になくなっており修理は不可能だったのだ。

 私達は従兄弟達の車に分乗し霊柩車の後に続いた。火葬場は大台町の町の中を通り過ぎ山

の中にあった。小さな火葬場だった。周辺は緑が豊かで早朝の光りの中ですべてが美しかった。

お坊さんの読経と線香の煙が小さな部屋を満たしていた。お棺の周辺には何本もの小さなろう

そくが立てられ、これが死者をあの世に送る灯火となっているようだ。

 読経が終わると伯母ともお別れだった。炉の戸が上がりお棺は滑るように中に入っていった。

そして間もなく火が着いたのかゴーゴーという大きな音がし始めた。部屋の外に出てみると煙突

からは黒い煙が上がっていた。従兄弟のKが「おばあさんが黒い煙になって上がっているよ」と

他の従兄弟に話しかけていた。寂しい言葉だった。天寿をまっとうして亡くなったとは言え、やは

り淋しさは隠せない。

 お骨はお昼前に上がるとのことでいったん引き返すことにした。帰り道はわざと来るときとは

違う道を通って帰った。霊が後を追ってくるのを避けるためであろうか。

 家に帰った後、気になっていた靴を買いに町に出ることにした。従兄弟のTに頼んで車の運転

をして貰い町に出た。従兄弟のTは私と同い年だが、彼もこの町を離れて長い。旧市街地はさ

して変化しているようには思えなかったが、靴屋の前にすんなりとは行けなかった。一度行き過

ぎて引き返した。靴屋と言うよりは田舎の雑貨屋のような店だった。選ぶほどの種類もなく、た

めらわずに出された靴を買った。一万円だった。決して安いとは思えなかったが緊急の時でも

あり仕方がなかった。

 靴を買って家に帰ると昼食が準備されていた。寝不足と運動不足であまり食欲がなかった。

お葬式の前だというのに魚がおかずに着いていた。ところ変われば何もかにも習慣が異なるよ

うだ。この頃から親戚の人もどんどん増えてきた。

 誰が、どの従兄弟の家族なのか良く分からないままに挨拶を交わした。この中に私のサイト

を読んで何度も電子メールをくれたWとその家族がいた。Wは従兄弟のYの長男だった。いわ

ばこの家の跡取り息子だった。彼は奥さんと息子さん二人の四人家族だった。Wとは彼が子供

だった頃、一度会ったきりで成長後の姿を見るのは初めてだった。従兄弟のY夫婦には、この

Wともう一人娘さんがいる。二人とも今は立派に成長し、それぞれの家庭を持っている。Wは

かしこまって私の前に座っていた。簡単な挨拶や言葉を交わしただけだったが、何もかも通じて

いるような感じだった。他の人から見れば見知らぬはずの二人が親しく話をしている姿を見て

不思議に思えたに違いない。しかし、私達にとっては何度かの電子メールのやりとりで、彼の

お父さん(従兄弟のY)と考え方などが非常によく似ている事が分かっていたので、彼が成人し

てから初めての対面ではあったが、何の違和感もなく話が出来た。

 お葬式は食事が終わって間もなく始まった。長い読経だった。お経といっても訳の分からない

呪文ではなく、きちんと内容が聞き取れる日本語のお経だった。これもお経と言うのだろうか。

 こうして全ては滞りなく終わった。この間、葬儀の進行役はお坊さんと地域の世話役さんの二

人舞台だった。ここでは、まだまだ昔のままの習慣がたくさん残っているようだ。それぞれの従

兄弟やその家族がお骨など野辺送りの道具を持って車に分乗した。確か、祖母の葬式の時は

墓地まで歩いて行ったような記憶が残っている。

 墓地は、この家からほぼまっすぐ下った宮川のそばにあった。みんなが集まると早速、墓地の

一角にあるお堂の中で読経が始まった。ここでもお葬式の時と同じように叔母さんに一番近しい

ものから順番に焼香した。お堂のすぐ脇の墓地には既に納骨の準備が出来ていた。ぽっかりと

空いた穴の中に骨壺を入れると一人ずつ順番に土をかけた。こうして、みんなが土をかけ終え

ると、後始末を穴を掘ってくれた人に頼んで引き返した。大勢の人の野辺送りだった。

 この後、全員は近くのお寺に行ってお経を上げることになっていた。初七日の代わりだろうか。

私はお寺には行かずに失礼することになっていた。挨拶に来たWにそっと言った。まじめなW

には仕事の上でも悩むことが多いように思えたからだ。そんなWに同じ会社勤めの経験者とし

「他人(ひと)に何と言われようとも、引くべき時は勇気をもって引きなさい。誇り高き撤退も時に

は必要だよ」。彼がどう受け止めてくれたのか分からなかったが、何か感ずるところがあったの

だろう、その後の電子メールでも「あの時、おじさんに言われた言葉が耳に残っています」と書い

てきてくれた。

 従兄弟のKが帰りのことを気にかけていてくれ、彼女の配慮で津市まで帰るというKの娘達家

族の車で途中まで送って貰うことになった。紀勢線の本数は少なく松阪駅まで送って貰えれば

時間の短縮が可能だった。松阪駅からだと近鉄に乗れば大阪まではすぐだった。

 Kの心配りに感謝しながら車に乗せて貰った。娘さん夫婦も気さくな人達で気兼ねなく乗せて

貰うことが出来た。こんな事を「血は水より濃い」と言うのだろうか。ともかく車の中では私の地

球一周の話や先の津市での地震時の話など飽きることなく話が続き退屈しなかった。当初は

松阪駅にと言っていたのだが、娘さんの主人の配慮で同じコースを走るのなら伊勢中川駅に行

く方が大阪行きの本数は多いはずだと言うことで、この駅を目指した。

 地図で見ると松阪駅と伊勢中川駅はさして離れてはいなかった。しかし、この駅には名古屋

方面から来る電車もあり大阪行きの本数は松阪駅より遙かに多かった。駅の駐車場に入ると

娘さんが見送ると言って荷物を持ち先に立った。本当に親切だ。従兄弟のKの人柄が娘さん達

にも反映しているのだろうか。私は見送ってくれた娘さんに何度もお礼を言いながらホームに

出た。この電車に乗ってしまえばもう帰ったようなものだった。わずか二日間の旅だったが思い

出深い旅になった。もう二度と従兄弟達と一同に会することはないだろうが、今はただ遠い昔に

思いを馳せながら、従兄弟達やその家族の幸せを祈るばかりである。

                                    2005年7月29日掲載

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