源平合戦と倉敷

 今、NHKの大河ドラマとして「義経」が放送されている。幾度となく繰り返し映画化されてきた

「源義経」である。平家追討の先陣に立ちながら、兄頼朝からうとまれ、若くして非業の生涯を

閉じた。義経に対しては、俗に言う「判官贔屓」ゆえに日本人の共感を誘うものがあるのか、

NHKでも何度となく繰り返しドラマ化されてきた。

 余談になるが「源義経」や「大石内蔵助を柱に据えた忠臣蔵」等は、大河ドラマとして最も多く

取り上げられてきた。他にドラマ化出来るような題材はないのだろうか。もういい加減に同じもの

からは脱却したいものである。企画が貧困なのか、それとも脚本家がいないのか、他に理由が

あるのかどうかは分からないが、日本にもドラマ化出来る人物は、たくさんいるはずだと思うの

だが。

 話は横道にそれたが、この義経を取り上げた講演が先日開かれた。毎年一回行われている

児島図書館での講演だった。今回は「古典に描かれた義経像」という講演で、講師は地元の

短大で教鞭をとっておられた藤原明実先生だった。私は残念ながら途中で退席せざるを得ず、

一番聞きたいところを聞き逃してしまった。

 先生の話によると、実録として残っているのは「吾妻鏡」や藤原兼実の書き残した「玉葉記」と

いう日記等ほんのわずかなものしか残っていない。その他は、うわさ話を聞いた琵琶法師など

が語り継ぎながら様々に脚色していったのではないだろうかという話だった。また、物語としては

「平家物語」や「源平盛衰記」等が今日まで伝わっている。そして、江戸時代になると歌舞伎など

でも演じられるようになってきた。

 こういった様々な変遷をたどりながら、徐々に今日の「義経」像が出来上がっていったと思わ

れる。いわば悲劇のヒーローは、こうあって欲しいと思う大衆願望のようなものが「義経」像を作

り上げていったのではないだろうかという先生の話だった。

 さて、ここ倉敷は源平合戦の大きな舞台となったところである。かつて倉敷周辺は遠浅の広い

海であった。(今の船穂や総社当たりまでが海であったと思われる)その海には点々と大小の

島が点在していた。その数は今日の比ではなかった。倉敷周辺には島と名の付いた地名が実

に多い。早島、連島、児島、乙島(おとしま)、亀島等、主立ったものだけでもこんなにある。今

は干拓が進み陸続きになった島々である。その他にも地名としては島が付いていないが孤立

した山々が幾つもあり、これらすべて小さな島であったと思われる。(倉敷市笹沖にある足高山

等がそうである)

 また、平家や源氏に関係する遺跡も少なくない。私が知っている範囲でも浮洲岩、乗り出し岩、

盛綱橋、藤戸寺、経が島、田之浦(壇ノ浦)、扇のたわ等が残っている。特に藤戸近くには笹無

山という山がある。

笹無山伝説

 かつて小さな漁村であったこの地には親孝行の息子がいた。そこへ源氏の武将佐々木盛綱

がやってきた。船を持たない源氏は何とか平家の陣屋に少しでも近づきたいと考えていた。

 この当たりは遠浅の海であり潮が引くと幾つもの瀬が顔を出した。この瀬を伝っていけば何と

か平家のいる児島(当時は島であった)に近づくことが出来るのではないかと考えた佐々木盛綱

は、海のことを良く知っている地元の漁師を呼びだした。そして、海の中を馬で渡る道を聞き質

した。漁師は快く知っている海の道を案内した。

 漁師の案内で藤戸の瀬を渡った盛綱陣営は平家陣営への一番乗りを果たし平家追討に一

役買った。しかし、海の道を案内してくれた漁師には褒美を与えるどころか、口封じのために

殺してしまった。

 息子の母親は盛綱の陣屋に呼び出された息子のことを案じていた。しかし、息子は一晩待っ

ても帰ってこなかった。母親の胸騒ぎは翌朝、現実のものとなってしまった。愛すべき息子は

無惨な斬殺死体となって海岸に打ち寄せられていたのだった。

 悔しがった母親は以来、「佐々」と聞けば山の「笹」まで憎いと言って山の笹をむしってしまい、

近くの山は笹のない山になってしまったという悲しい話が残っている。

 後に佐々木盛綱は口封じのために切り捨てた漁師の霊や、この戦で命を落とした両軍の兵

士の霊を弔うため藤戸寺を再興し大法要を催したと伝えられている。また、近くには漁師の霊

を弔ってお経を埋めたという経ヶ島なるものも残っている。

 この地は神戸の一ノ谷や四国の屋島や山口県の壇ノ浦などと伴に、水島合戦、下津井合戦、

藤戸合戦など源平合戦の舞台となったところである。また、一説によれば下津井の田之浦が

壇ノ浦ではないかという説もある。ここには「扇のたわ」という地名が今も残っている。かの平家

の女性が沖に停めた船の上に扇の的を置き「この扇を射てみよ」と源氏方に手招きをしたとい

う伝説はあまりにも有名だが、「扇のたわ」とは、この伝説にちなむ地名ではないかと思うので

ある。そんな事から下津井の「田之浦」が、実は「壇ノ浦」ではないかとも言われているのである。

 ここ「田之浦」は瀬戸大橋の本土側の起点になっている。下津井瀬戸大橋と呼ばれている橋

の下には、平清盛の息子である重盛が在りし日の都を偲んで歌にしたためたという歌が大きな

御影石に書かれて紹介されている。旅行の際は是非お立ち寄り頂きたい。大きく変貌した今日

の「田之浦」漁港の姿を見たら平重盛は何と思うだろうか。

                                      2005年7月29日掲載

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