布施の経済

 今、私は児島の歴史について学んでいる。講師は長く教職にあった大谷壽文先生である。講座は座学では

なく直接現地へ足を運び、その場所で先生からお話を聞いている。今年はことのほか暑い夏であった。この

猛暑の中でご高齢にも関わらず熱心にお話下さる先生に頭の下がる思いである。

 さて、私達が常日頃、何気なく見過ごしてきたものの中にも、それぞれの歴史があって大変興味深く聞いて

いる。その講座の第4回目は児島下の町周辺の歴史的遺物に付いての話であった。この中でみなさんに紹介

しておきたい話があったので書いてみた。

 下の町の琴浦中学校へ続く道の入り口に「すぐ如来道」と彫られた道標(みちしるべ)が立っている。しかし、

道標(みちしるべ)通りに尋ねても阿弥陀如来様はどこにもない。実はこの道標がたてられた頃には大きな

磨崖仏があり、この周辺は信仰厚き人達によって大変賑わっていた。

    

道標には「すぐ二十一番札処道 是より奥院如来へ八丁」と書かれている。

右の写真は道標の立っているところから当時「下村湊」と呼ばれた海岸へ続く道

 そのことは、宝暦3年というから西暦で言うと1753年頃の「社寺旧記」という古文書に書かれている。ちなみ

に先ほどの道標は天保6年(西暦1835年)に立てられているから「社寺旧記」が書かれてから、おおよそ

80年が経っている。

 また、「撮要録」という古文書には地元の住人から香油茶水売小屋の設置願いが出されている。つまり線香

や灯明油、お茶などを売る店の開業願いである。このような店を出すほどに参詣人で賑わっていたのでは

あるまいか。その証拠に、これらの店から売上金の一部が運上金として岡山藩の出先である天城の陣屋に

納められている。当時のお金で銀二貫三百四十二匁となっている。これを現在の金額に換算すると百十七万

円となる。現金収入の少なかった当時にあっては少なからぬお金である。

 これだけの信仰を集めた磨崖仏ではあったが今はその姿を見ることは出来ない。この周辺はかつて石の

採掘場であった。大阪市内を走る市内電車のレールの下に敷かれた石はここから切り出された。その際、

誤って石仏も壊してしまったからだ。

 石切場から少し離れたところに磨崖仏はあるが、その後に再建されたものである。先の磨崖仏が破壊された

後、近くの集落では病人が相次いだ。その鎮魂の意味もあって再建されたのではないだろうか。しかし、今の

世にあっては遠くからの参詣人はおろか地元の人でさえ訪れる人は少なくなっている。また、当初の如来様は

阿弥陀如来であったが、今祀られている如来様は大日如来である。

 また、この道は瑜伽山大権現へ続く道でもある。この道の少し下手、海寄りには大きな石造りの鳥居が立って

いる。この鳥居の東の柱と西の柱には、それぞれ鳥居を立てた人の名前が記されている。東の柱には現在の

総社市長良の大庄屋であった前田輿右衛門信永らの名前が記されている。また、東の柱には地元の商人で

ある油屋藤右衛門、花屋菊兵衛、油屋善右衛門らの名前が記されている。

 油屋や花屋と言うのは屋号であり、その家の生業(なりわい)表している。従って、阿弥陀如来の磨崖仏が

あった頃、岡山藩に出店依頼を出した商人達ではないだろうか。これらの商人は磨崖仏信仰や瑜伽参詣人達

相手の商売を通して財を成していったものと思われるのである。

 今もかつて街道筋であった道筋に当時の面影を残す建物が残っている。これらは後に参詣人を泊める船宿

にもなっている。当時は下村と言われていた港や田の口港に船が出入りし、これらの港を起点にした瑜伽大権

現へ行くもの、金比羅大権現へ行くものが両参りと称して行き交っていたようだ。

    

「下村湊」から上陸した参詣人はこの大鳥居をくぐって如来様や瑜伽大権現へ向かう

大鳥居の扁額には背中合わせに金比羅大権現と瑜伽大権現と彫られている

    

大鳥居の施主の名が両サイドの柱に彫られている

東の柱には油屋、花屋の名前が見える。また、西の柱には大庄屋前田の名が見える

 話は変わるが先日ライフパークでの仏教講座を受講した。今回は他行事と重なり十分な講義を受けることは

出来なかったが、その中で聞き慣れない言葉を耳にしたので書いておきたい。それは、今の世の中では死語

同様になってしまった「布施の経済」と言う言葉である。先生の話を聞きながら私流に解釈して書いているので、

少しピントがずれているかも知れないがお許し頂きたい。

 江戸時代やそれ以前は、信仰の対象である神社仏閣の繁栄が当時の経済に大いに寄与していたのでは

ないだろうか。先ほどの磨崖仏のように信仰の対象があれば人がお参りに来る。そうすれば、お参りに来た

人達を相手した商売が始まる。市(いち)が出来る。市が出来れば市で売る商品の製造が始まる。このように

して次第に地域は発展してきたのではないだろうか。

 先ほどの油屋や花屋やお茶屋、船宿も参詣人を相手にした商売である。ここ児島は昔から繊維産業が盛ん

であった。その理由の一つが瑜伽大権現の参詣人相手の足袋や小倉帯や組紐、打紐等というものがたくさん

生産されていたからに他ならない。

それほど地域における神社仏閣の影響力は強かったと見るべきではないだろうか。今でも名だたる名所旧跡

は神社仏閣が少なくない。それらの門前町は参詣者や観光客が使った金で潤っている。

    

かつて、下村湊の金比羅宿であった「油屋」の一部である。当時の面影を今に伝える大きな井戸と常夜灯

金比羅宿であった「花屋」。今は当時の面影を伝えるものとして建物の一部が残っている

 余談になるが私の家内のおじいさんも、その先代も小倉帯を作っていた。おじいさんが帯の柄をデザイン

したというデザイン画も残っていた。また、塩田王として有名だった野崎家も当初は足袋を作っていた。振り

返ってみれば児島の繊維産業の基礎は、江戸時代に築かれたと言っても過言ではあるまい。

 このように地域の経済を潤すほどに信仰を元にした布施の経済は大きかったのである。確かに、大きく発展

した今の経済からみれば布施の経済は微々たるものかも知れない。しかし、人々の信仰という善意から発展

したものである。実に平和で他に害を及ぼすことのない健全な経済である。「布施の経済」という経済の原点を

見直すことによって、バブル崩壊につながった異常な経済を見直してみる良い機会ではないだろうか。

追記

 地域における商業活動という観点から「布施の経済」を見てきたが、これら神社や仏閣といった施設そのもの

への寄進もあった。たとえば、先ほどの大鳥居や各港から瑜伽山までの距離を表す石の柱、また参道の両脇

に立てられた石灯籠や石柱など、これらの材料と建設に費やされた費用も少なからぬ金額であったに違いない。

 これらもまた、広く地域の経済を潤すものであったと見るべきであろう。参道があれば港が必要になる。港が

出来れば船が必要になる。船が出来れば船乗りが必要になる。このようにして一神社とは言え、大きな雇用力

を生み出すことになるのである。

 今はすっかり寂れてしまった瑜伽大権現周辺であるが、江戸時代から明治初頭まで遊女の置屋等もあり

大変賑やかであった。往時の繁栄ぶりを明治の文筆家成島柳北は「航薇日記」なるものに実に生き生きと

書き写している。

                                                 2004年9月10日掲載

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