清音方面をバックに福山城跡に立つ

 2000年9月24日、友歩会のメンバー10数名が、いつものように福田公園に集合し目的地に

向かう。目的地の近く、安養寺の駐車場に車を停め、準備運動をする。

 安養寺の歴史は平安時代にまで遡るとも言われ伝統ある名刹である。ご本尊は毘沙門天、堂内には

様々な時代に作られた大小の像が納められている。現代のお寺は建立当時に比較すると大変小さく

なっている。背後の山からは平安時代の経瓦等たくさんの由緒あるものが出土している。これらの

歴史的遺物を見ていると、この地が単なる聖域と言うだけでなく、古くから人が往来した開けたところ

でもあったと思われるのである。安養寺の境内には、お寺の方が栽培しているものと思われる草花が

所狭しと置いてあり、これを鑑賞させて貰うだけでも十分楽しめる。

 お寺の背後には旧古戦場跡、備中福山城がある。この戦跡地の歴史はかの足利尊氏の時代にまで遡る。

    

安養寺の駐車場にて、右は安養寺境内に咲いていた白い曼珠沙華


備中福山城の歴史

 福山合戦は南北朝対立の契機となった合戦です。 南北朝初期の延元元年(1336)5月、

この備中福山城をめぐって南朝方の新田義貞の武将である大井田氏経(おおいだ・うじつね)の

軍勢と、北朝方の足利尊氏の弟、直義(ただよし)の軍が三日三晩にわたって死闘を繰り返したのです。

 以下はインターネットにより「山手村のホームページ」より拾った備中福山城の歴史の詳細です。

<後醍醐天皇の建武中興政府に反旗をひるがえした足利尊氏は、鎌倉から京都に攻め上がったが、

新田義貞らの軍勢に敗れ、九州博多に逃げのびた。

延元元年2月、尊氏・直義の兄弟は巻き返しを図ろうと九州で態勢をたて直し、再び都をめざして

東上を開始した。 足利勢は備後の靹にかかったとき、海路と陸路の二手に分かれて東上を開始する。

海路は尊氏が、陸路は弟の直義が行く。 進行に際して、中国地方の多くの武将が尊氏に恐れをなして

味方についた。 ただ一人、新田義貞方の武将、大井田氏経が尊氏の東上を阻止せんと立ちあがり、

備中福山城に立てこもったのである。 氏経の兵は千五百人足らず。 一方、陸路を行く直義の兵は三十万。

さらに海路を行く尊氏の丘船は七千五百余艘である。

 合戦の行く末は戦わずして知れている。 しかし、圧倒的に不利な戦況にもかかわらず、氏経の戦意は

おとろえるどころか、ますます高まるばかりであった。

5月15日、合戦にそなえ、直義は草壁(矢掛町)に着き、尊氏は児島下津井に陣を張った。

15日夕。直義の軍勢は福山に接近し、数百か所でかがり火をいっせいにたき始めた。

「これだけの軍勢をみれば、氏経も恐れをなして逃げうせるだろう」しかし、氏経は逆にかがり火をたいて、

これに対抗した。 これが福山合戦の合図となった。

 28日早朝。直義の軍勢三千余騎が浅原峠から攻め寄せた。 しかし城の守りは堅く、これを打ちはらう。

氏経勢は山頂から岩石を落とし、矢を雨のように降らせ抵抗する。 この攻防で一万余名の戦死者を出した。

翌日、福山には霧が立った。 その霧の彼方に二引両(ふたつひきりよう)の旗がひるがえっている。

「あれぞ、まさしく左馬頭(直義)。生かしておくものか。わしに続け。」

氏経は500人の守兵を残し、直義二万騎の中へ打って出たのである。

 血みどろの死闘はいつ果てるともなく続いた。 直義めざして敵をちらしていく氏経であったが、

直義の姿がない。 氏経自身も傷つき、兵もわずか三百数十騎を残すばかり。

福山山頂を仰げば城は炎に包まれている。 無念さを感じつつ氏経は両手を合わせて福山城をふし拝んだ。>

福山合戦は、こうして三日三晩の戦いの幕を閉じました。 あとに残ったものは折り重なった両軍の

戦死者ばかりでした。

 それから650年余りが過ぎ、昭和61年5月「福山合戦650年祭慰霊碑」が建立され、戦死者の霊が

なぐさめられました。


福山城跡の広場と遠く倉敷方面が見える

 現在の山頂には当時をしのぶようなものはほとんど残されていません。

しかし、展望の良さは抜群で、この地が天然の要衝であったことを伺わせるに十分なところです。

眼下には清音村の平野が広がり、反対側には倉敷市街地から遠く瀬戸内海まで展望できる

ような見晴らしの良いところです。

 私達は安養寺の裏側の方から山道を登りました。途中、共同墓地などもあり、簡易舗装も

されていました。畑の途切れる当たりまでは比較的平坦な歩きやすい道でした。山道に

さしかかったあたりから、急坂になり周辺は鬱蒼と生い茂った雑木林となります。

 私達が歩いた日は雨上がりの翌日でしたから、地面は湿っており大変滑りやすい状態でした。

息を切らせながら登る道の途中には、古い寺院の礎石などが掘り起こされており、昔の安養寺が

そうとう規模の大きなお寺であったことが伺えます。

 こうした遺跡を見ながら進むと、やがて広い場所に出ます。ここが福山城の跡です。土累の

跡だとか、から堀の跡だとかという説明書きがありますが、今は平坦地と見分けが尽きません。

戦跡地としての由来を記した大きな石碑が建っています。古くから地域の人には親しまれてきた

土地のようです。真新しい案内板等からも、今も大切にされている場所だということが伺えます。

ススキの蔭から清音方面を写す

 清音村の方から吹き上げてくる風が大変心地よく、いつまでもここに居たいような感じさえします。

眼下に広がる平野は実り豊かな秋景色です。稲刈りが一斉に始まるのももうすぐです。高梁川の

流れが秋の日差しを反射して、白い帯のように見えます。私達は素晴らしい景色を眺めながら、

ここで昼食を取ることにしました。

実り豊かな吉備平野

 私達が来る前にも、そして私達が来てからも、たくさんの人がこの山を目指して登ってきます。

今まで、私達が知らなかっただけで、ここは多くの人達に親しまれているハイキングや山歩きの

コースのようです。

 昼食を済ませ、周辺を散策した後、新鮮な山の空気を胸一杯に下山を開始しました。意見は

二つに分かれましたが、1200段の階段の方を下りることに決めました。これがこの先どんなことに

1200段もの階段

なるのか、この時は誰も考えていませんでした。下山途中で足がひきつるという人が次々に

出始めたのです。私と数人の者は、みんなより一足早く下山しました。しかし、待てど暮らせど

後の人が来ないのです。実はみんな途中で階段をリタイヤして、違うルートを下山したのです。

 十分なストレッチをしたつもりでしたが、2、3日後から猛烈に足がこわばり、痛くて歩けないのです。

家の階段や少し段差のあるところでも、何かにつかまらなければ上がり下りが出来ないのです。

1200段の階段を下りた後遺症です。この日は元気良く下山したのですが、後になってこの有様です。

恐らくは、大半の人達が同じ様になったであろう事が想像されます。階段の下りは要注意です。

 しかし、この階段は良く整備されており、所々に段数を記録した札が貼ってあります。

この辺り一帯は古くから開けたところであり、総社に続く歴史街道として古墳なども散在しています。

これらを整備して一体を歴史公園のようにしています。今は古い街道を広げ倉敷から清音に

抜ける大きな道路を建設中です。これが完成すると総社に抜ける3ルートが完成し、ますます便利が

良くなることでしょう。

道縁に咲いていた野菊の花

 道の辺には野菊が咲き、萩の花がこぼれ落ち、晴天に恵まれた素晴らしい1日でした。又、機会が

あれば、是非、歩いてみたいコースの一つです。

                                                 2000年12月29日掲載

「特記」

安養寺というお寺を検索してみましたところ、安養寺というお寺は全国に点在し、残念ながら

倉敷の安養寺の記事は見あたりませんでした。


   関連リンク

      岡山県山手村のホームページ(福山合戦の一部を抜粋させて貰いました)

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