懐かしい映画の日々

ターザンや鞍馬天狗

映画にまつわる思い出は多い。子供の頃から映画好きだった私にとっていろんな思い出が残っている。

私が育った田舎町神辺にも映画館があった。「公映館」(正しくはどう書くのか不明)と「かんけん座」、どちらの映画館も

いかにも田舎町らしいひなびた名前だ。

かんけん座は掛けの橋に上がっていく坂道の下にあった。急な階段を下りていくと映画館の入り口がある。

先日神辺に行った際立ち寄ってみたがすでに建て屋は取り壊され、空き地になっていた。かろうじて当時の面影を

とどめるものは急な階段だけであった。子供の頃は大きな階段に思えていたものもこうして眺めてみるとみすぼらしく

小さなものだ。ここは映画だけでなく芝居や歌謡ショーなどもやっていた。二階の周囲半分には二階席があり、一階の

前半分は座席になっており、後ろ半分は木の長椅子になっていた。そんなわけで映画に行くときは必ず座布団持参

で行くことにしていた。ここで見た田舎芝居の思い出も場末の歌謡ショーの思い出もおぼろげながら記憶の中に残っている。

映画についての思い出も幾分かは残っているのだが、ここで見たものかあるいは他のところで見たものかは定かではない。

記憶に残っている映画としては原爆の映画と戦艦大和の映画だ。いずれも白黒の記録映画に近いようなものだった

ような気がする。今でも記憶に残っているところをみるとよほど強烈な印象だったのだと思う。そして何よりも人気が

あったのはターザンの映画だった。密林にこだまするターザンの雄叫びは子供達のターザンごっこには欠かせない

ものだった。近くの山に行ってはかずらにぶら下がってターザンの雄叫びをまねたものだった。

そして、日本映画と言えば鞍馬天狗だった。杉作、鞍馬天狗の名コンビ。子供心に胸躍らせて食い入るように見ていた。

杉作危うしというところへ鞍馬天狗が颯爽と馬に乗って現れる。もう拍手喝采だった。

かんけん座の跡地  2000年2月撮影

講堂もグランドも映画館

映画は小学校の講堂でもやっていた。それも授業中のことである。さながら今で言うテレビ授業かも知れない。

日本隊が「マナスルに初登頂」に成功した記録映画や「砂漠は生きている」と言った教育映画だった。地元の映画館から

これらは白黒からカラーに変わっていく過渡期の映画で、色鮮やかなカラー画面が強烈に印象に残っている。

講堂で上映するときには映画館から映写機を運び込んで上映していた。時折洩れる映写機のアークの強烈な光と

洩れる光の中をアークの煙がうっすらと上がっていたのを今でも鮮やかに思い出すことができる。そしてフィルムを

巻き取るリールの音はカタカタとなって今でも脳裏に残っている。

今日は映画があるという日は朝からワクワクしていた。私にとって映画は現実を離れ、夢の世界に連れていってくれる

魔法のようなものだった。同級生達は映画を見終わったら頭が痛いといっていたが、私はいくら見ても見飽きなかった。

小学校の講堂は子供達だけでなく、大人にとっても娯楽の場所だった。たまに開催される映写会はどういう経緯で

開かれていたのか知る由もないが、常に満席になるような大盛況だった。

中学校のグランドも映写会場となった。グランドの片隅に映写幕をはり露天で映画を上映する。

ここは入場制限もなく、夏場には良い夕涼みが出来た。当時は周りに映写の妨げになるような照明は何もなく

夕日が西の空に沈んでしまうと広いグランドは真っ暗だった。天然のクーラーのきいた大きな映画館だった。

たいていは2本立て位で日活や東映と言った人気俳優の出ている娯楽映画だった。

いつの頃までこんな形の娯楽が存在していたのか定かではないが、恐らくはテレビの普及と共に急速に衰退して

行ったように思う。今となっては甘く懐かしい思い出である。

あの映画この映画

小学校の近くにあったもう一つの映画館公映館で「ゴジラ」の第一作目をみた。確か学校から連れていってくれた映画だった。

ゴジラの甲高い叫びと驚異的な破壊力、それまでにSF映画というものがなかった時代なので、実に新鮮で強烈なイメージだった。

私は感動を作文に書いて応募したところ入選して深安郡の作文集に載せて貰ったこともあった。

中学、高校はあまり映画とは縁がなかったように思う。それでも高校時代は福山に通っていたので映画と言えば福山の映画館が多かった。

福山の映画館ですぐ思いつくのは天満屋の前にあった「日米館」、その他洋画の「KO劇場」「大黒座」「大勝館」等があった。

当時70ミリという大型画面が普及し始めた頃で、私の見た映画は70ミリが多かった。「王様と私」、「南太平洋」、

「アラモ」「サウンドオブミュージック」、「十戒」、「ベンハー」等々不朽の名作と言われるようなものが多かった。

別けても黒沢監督の「椿三十郎」や「七人の侍」等はリアリズムということが言われ始めた頃で、刀のふれあう音や

人を切る音や血が吹き出すシーンなど従来にはなかった新鮮な迫力が感じられた。外国映画で印象に残っているのは

ヒチコック監督の「鳥」やフランス映画の「太陽がいっぱい」等が印象に残っている。

親に内緒で見に行った映画は「肉体の門」、性に興味を持ち始めた頃で、母の里の三瀬谷でのことだった。

私には同級生のいとこがおり、彼に誘われるままに入った映画館で上映していた映画だった。子供に対する入場制限もなく

なんなく入れたのは不思議な事だった。女優は当時肉体派といわれた筑波久子だった。(もちろん当時は知る由もなく、

彼女が筑波久子だと知ったのはずっと後の事だった。)その日の晩は興奮してなかなか寝付けなかったことを覚えている。

あの時いとこは成人向けの映画だと知って誘ったのだろうか未だ定かではない。

懐かしい映画館

社会人になってからは思う存分、暇さえあれば映画館に通っていた。就職先の工場が熊本県の宇土市にあった。

この町も神辺に負けないくらいの田舎町で映画館も一館だけ、「銀星」といういかにも安っぽい名前の映画館が

あった。椅子も木の長椅子で長時間は座っておられないほど尻が痛い。そんな映画館で3本立てで60円か80円

だったような気がするのだが、とにかくビックリするような安い入場料金で映画が上映されていた。大半は娯楽映画だった。

この映画館へは入場料が安いので暇つぶしに良く通った。しかし、入場料金が安い分、上映途中でフィルムがよく切れて

中断ということもしばしばだった。

倉敷に転勤になってからは旧倉敷駅前の三友館(洋画専門だった)や、倉敷東映、日活、千秋座等々に良く行った。

小さな町なのに映画館は意外に多かった。これらの映画館も客足が遠のくに連れて次第に廃館となり、今は東映と

千秋座だけになってしまった。川西町にはエロ映画専門館もあったが、とうとう一度も行くこともなく廃館となった。

岡山に行くときは封切り映画の時だけ、特に大作といわれるような映画は封切りで見ることが多かった。

テアトル岡山、岡山グランド等にはしばしば行った。

家内との初デートも映画だった。映画館の近くに映画を観るときには必ず立ち寄っていた中華料理の店があった。

決してキレイとは言えない店だったが味は良かった。ここで昼御飯を食べ映画館に入った。先日も家内と話をしたのだが、

この時観た映画のストーリーは良く覚えているのに名前が出てこない。SF映画だった。それまでSF映画など見たことも

なかった家内だったが、この映画には結構感動していた。SFも意外に面白いと思ったのだろう。

なんと言っても迫力のあるのはシネラマだ。大阪には梅田にシネラマの映画館があった。全席指定の映画館で

画面が視野からはみ出るくらい大きく音響効果も抜群だ。私は大阪に労組の役員として通い始めた頃から一度は

見てみたいと憧れていた。初めて見たのが「未知との遭遇」だった。最後の場面で母船と思われる巨大な円盤が

下りてくるシーンなどは大画面でしか味わうことの出来ない大迫力で痛く感動してしまい、その後他の映画館に何度も観に行った。

映画好きの夢

映画好きの私にとって、夢はと聞かれれば映画技師になって好きな映画をみんなに見て貰うことだ。

そんな私が取得した免許が16ミリの映写機操作免許証だ。倉敷市が開いている講習会で取得して以来ずっと

車の運転免許証と共にある。子供会の映画鑑賞会や会社での映写会などを開いて何度かその腕を披露したことがある。

自分でフィルムをセットをして上映をする。何となく少しだけ自分の夢が実現できたようでうれしく思ったことがある。

西田敏之主演の「夢を売る男」はまさしく私が理想とする夢の世界だ。

「ああ野麦峠」

最後に感動したと言うよりは悲しかった映画といった方がふさわしいかも知れない「ああ野麦峠」について書いて、

この項を終わりたいと思う。皆さんは女工哀史をご存じだろうか。諏訪湖のほとりに絹糸の製糸工場がたくさんあった明治時代の話だ。

当時絹糸は外貨の稼ぎ頭として作ればいくらでも売れる時代だった。

製糸会社は競って女工として年端のいかない女の子達を安い金で年季奉公にかり出していた。貧乏育ちの娘達は

白いご飯が食べられると言うだけで、親たちが前借りをしたお金のために工場に連れて行かれ、劣悪な環境の中で

病に倒れ、あるいは男に騙され捨てられていった。

当時諏訪に出るには野麦峠という難所を越えなければならなかった。真冬の豪雪地帯を荒縄で身体と身体を結んで

男仕達の先導で野麦峠を越えてゆく。地獄のような山越えをしていった所も又、それに負けぬ位の地獄だった。

こうして幾多の悲劇がこの地で繰り替えされるのである。大竹しのぶの演じた女の子も一時は百円工女ともてはやされて、

金の卵のように扱われるが、結核に倒れると手のひらを返したように工場の片隅の小さな小屋に放り込まれてしまう。

会社から連絡を受け、兄(地井武男)が大急ぎで妹を引き取りに行った時にはすでに重症で、帰る途中の妻籠宿では病気を理由に

宿泊を断られ、兄と野宿をする。そして旅の途中、再び自分の故郷の土を踏むことなく優しい兄の胸の仲で死んでゆく。

上映が始まってから最後まで涙なくしては見ることの出来ない映画であった。一緒に行った同僚も同じように涙を流していた。

この映画を観てからずっと後、野麦峠を観光バスで通った事がある。昔の難所といわれた面影はすっかり

なくなっていたが、野麦峠を通る時バスガイドがこの話をしてくれた。その話を聞いている内にまた映画の

シーンが思い出されて、涙がこみ上げてきた。今でも私の心に強く残っている映画である。

映画を見て感動する事の少なくなった昨今だが、数々の名画の思い出はいつまでも鮮やかな映像となって私の

心の中に残っている。                               2000年2月14日掲載

                                             2000年2月18日一部修正

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