熱中時代2

 

 先日、弟からY.H君が亡くなったという話を聞きました。中学校の同窓会を開く際、彼の消息を

尋ねるべく彼の家に出向いたのですが、色々と事情があったらしく、結局、彼の住んでいる

ところを教えて貰うことが出来ませんでした。東京の方に住んでいるということは聞いていました。

癌で亡くなったとの事でした。私達が尋ねていった前後に亡くなったようです。彼とは中学校

以来、会っていません。小学校から中学校にかけての無二の親友でした。お互いに仲良く

往き来した間柄でした。心から哀悼の意を表したいと思います。

 出来ることなら、もう一度会って、懐かしい、あの頃の事を、話してみたい思いで一杯です。

その彼との思い出は、これから書こうと思っている土器探しの話です。

 神辺町には、古くは国分寺があり、地名にも御領とか領家とか、この地が歴史的にも古い

土地柄であることを感じさせるような地名が残っています。そんなわけで、私は子供の頃から

少なからず、歴史に興味を持っていました。何がきっかけで土器探しをするようになったのか

覚えていないのですが、それこそ毎日、飽きもせずに、暇さえあれば土器を掘っていたことを

思い出します。その時の仲間がY.H君です。一緒に土器探しや土器を掘った事はあっても、

彼が何故、歴史や土器に興味を持つようになったのか、そんな事を聞いたこともなく、ただ、

いつの間にか仲良くなって、共に興味を抱いていた事をやり始めたという感じでした。

 高屋川は小さな川です。夏や冬になると水量が下がり、枯れ川になるような水の細い川です。

しかし、一旦、長雨ともなると、たちまち水かさがまし、暴れ川に変わります。川の総延長が短く、

かつ、川幅も小さく、枯れやすく、溢れやすい川です。そして、天井川と言われているように、

川底が平地より高くなっている川です。堤防がなければ、いつも平野部に水が溢れるような、

そんな川です。それだけに、古くから上流のものを押し流し、川底には色んなものが堆積して

いたのではないかと思います。私達が偶然、土器を見つけたのはそんな場所でした。小さな

川が高屋川に合流する場所で、その川底から少し高くなったところ。1メートルほどの堆積層が

露出している所でした。素焼きの土師器式土器と言われているような年代のものでした。

粘土層の土をそっと剥ぐようにして取り除くと、そこには夥しい土器が埋まっているのです。

周辺部の川底にも、同じような土器のかけらが散乱していました。間違いなく上流から流され、

この地に埋まったもののようです。私達は、この場所を秘密にし、暇さえあれば掘り続けました。

中には、ほとんど無傷に近いような茶碗もありました。今も大事に持っています。

 Y.H君との二人三脚の歴史への興味は尽きることなく、周辺部にも広がりました。彼のバイク

の後ろに乗って遠くまで古墳を見に行ったり、草戸千軒の発掘品の展示を見るために、鞆の

方までバイクを飛ばした事もありました。こうやって、歴史を通じての彼との交流は中学校を

卒業するまで続きました。その後、彼がどういう道を選び、どんな人生を送ったのか、分かりません。

しかし、私の歴史に対する興味は今も続いており、その思いは、中学校時代のY.H君への

思い出に繋がるものです。

 一度、神辺に立ち寄った時、思い出の場所に行ってみましたが、今は草に覆われてしまい、

どこが、その場所であったのか見分けもつかないくらいでした。40年近くの歳月は、痕跡を

残さぬ程に、全てを消し去ってしまうものなのでしょうか。今も、スコップを持って掘り返して

みたい、そんな思いを抱いています。その思いは、過去の自分自身やY.H君を訪ねる歴史探索

なのかも知れません。


 私の知りたがり屋の心は、郷土史や歴史というものに対しても向けられていました。

小学校の頃、学校の講堂で弥生時代を中心とする発掘品の展覧会とか、地元の郷土史家の

話を聞いたりする機会がありました。展示されている銅鏡や勾玉の美しさに少なからぬ感動を

覚えたのを思い出します。神辺周辺が大きな穴海だったのではないかという話を聞いた時には、

説明をされた郷土史家の家に、わざわざ出向いてまで再度詳しい話を聞いた事があります。

(後々に聞いた話では穴海説と言うのは昔からあった話のようですが、論的な根拠はなく、

単なる噂話のようなものであったらしいです。しかし、高屋川に洪水対策の堤防が築かれて

いなかった頃、高屋川の下流域にあたる片山周辺部は大きな沼地だったのではないでしょうか。

そんな事から、穴海説が生まれても不思議ではないような気がします。)

 ともあれ、私達が土器を掘り当てた場所からほど近い所の段々畑にも、赤茶けた土器の

かけらがたくさん散乱していました。こんもりと盛り上がった山は古墳のようでもありました。

天王山と言う神社の祀られた山でもあり、曰くありげな山でした。

 田圃の畦に小さな祠がありました。この祠の周辺にもたくさんの土器がありました。何故、

この田圃にだけ祠が祀られており、その下に土器が埋まっていたのか、今は知る由もありません。

そして今、この場所は団地の下になっています。

 神辺城跡地には、今も神辺城に使われていたと思われる瓦が散乱しています。多くは

崩れた土の中に埋まったり、落ち葉の中に隠れていますが、三つ巴模様の入った軒瓦が

たくさんありました。今も一つだけ私の手元にあります。

 限られた行動範囲の中でさえ、これくらい、多くの発見がありました。私達が専門家的な知識と

視野を持っていたなら、もっと多くの発見があったに違いないと思います。しかし、全ては遠い日の

思い出となってしまいました。                           2001年2月24日掲載    

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