安全管理という仕事

              


 ことは四年前の定年退職時に遡る。定年後をどのように過ごすかは、サラリーマン生活

の長かった私としては重要な課題であった。しかし、職場(化学工場)には二度と戻ることは

あるまい、戻るまいと思っていた。

 ところが定年間近になって仕事を続けてみないかと知人から声をかけられた。一人は

電気設備の保守管理をしているY社の社長であった。もう一人はT社という化学設備の

メンテナンスをしている会社の常務取締役のI氏であった。

 I氏は、私が二十歳代だったころ、私の勤務先であったN合成の定期修理時(以後、定修

という)に協力会社の社員として毎年来ていた。彼の会社は化学設備の熱交換器などの

高圧洗浄が主たる仕事であった。彼は若いながらもT社のリーダーとして多くの仲間を引き

連れN合成との交渉窓口になっていた。

 彼の会社が持ち込む電気機器は保守管理が悪く、毎年のように漏電を繰り返していた。

その度に、私たち電気係員に叱られて申し訳なさそうにしていた。定修時、私たち電気係員

は猫の手も借りたいほど忙しかった。その忙しいときに限って漏電トラブルを起こすもの

だから、みんないい加減頭に来ていたのだ。

 彼に辛く当たった事も何度となくあった。そんな関係が何年間も続いた。その内、彼の方

から漏電をチェックするメガなる測定器を買ってきて自分で調べるから使い方を教えて

欲しいと言ってきた。こちらは少しでも漏電事故が少なくなるならと気軽に測定器の使い方

や漏電箇所の調査方法等を教えた。日頃から私たちの仕事ぶりを見ていた彼は飲み込み

が早かった。以後はトラブルもすっかり少なくなり私たちに悪態をつかれることもなくなった。

 如何なる事も前向きに取り組む真面目な姿勢は、数多くの協力会社の社員の中でも光って

いた。こうして彼はT社にはなくてはならない人物となり、今の役職をつかんだようだ。

 私が保安環境部門の長になったとき、彼は例年と変わりなく多くの協力会社の一つ、T社

の責任者として工場に入ってきた。そして私が発注会社側の安全管理者として、定修に

おける安全管理を行った。

 彼にしてみれば毎年繰り返している手慣れた仕事であり、細かい事情にも通じていた。

新米管理者の私に何かと気を遣い親切にアドバイスをしてくれたのであった。この年の

定修に関する安全管理は、彼に大いに助けられた。

 こうした安全関係以外にも助けて貰った事がもう一つあった。それは動力部門の責任者

だったとき冷水塔という工業用水を繰り返し冷却して使う設備が、翌年の定修を前にして

壊れるという前代未聞の大きな事故があった。工業用水を使っている製造現場からは

水質管理が悪かったのではないかと疑われていた。

 実は冷水塔の設備や運転管理に問題があったのではなく工業用水を使っている相手

設備の方に問題があった事が翌年の定修時に判明した。私の課の水質管理を疑っていた

製造課の責任者は面目を失い私は名誉を回復したのだが、その時に設備の欠陥個所を

発見してくれたのがT社のI氏だった。私と彼は何かと縁の深い間柄であった。 

 その彼から定年前のある日、突然に声をかけられた。「矢吹さん、今年定年じゃろう、

定年になったら声をかけるけえなあ、安全ができるもなあ、すくねえけえ仕事はなんぼでも

あるでえ」。この時、私は工事の安全管理などしたこともなく、また、する気もなく彼の言葉

を軽く聞き流していた。

 ところが定年になって一年後の冬に彼から電話がかかってきた。実は水島コンビナート

のZ社で大きな定期検査(定期修理)があり、そこに常駐しているT社の安全管理をして

欲しいという依頼であった。彼には何かと世話になっており、無碍に断るわけにもいか

なかった。及び腰ながら彼と一緒にZ社内にあるT社の現場事務所に出向いた。それが

三年前のことであった。その時から私の新しい仕事への挑戦が始まったのであった。彼は

私が安全管理の仕事に向いていると、どこかで判断していたに違いない。

 毎年、二月中旬頃から三月いっぱい定期的な修理や検査に関する仕事がある。私は、

その期間中まるで季節労働者のごとく安全管理の仕事をしている。私の仕事は主として

T社の従業員や全国から集まってくる応援作業員の安全に関する監督業務である。そして、

高圧洗浄や解体修理を行う作業員達の受け入れ教育である。

 Z社内におけるT社は熱交換器の洗浄だけでなく、大きなタンクや配管など、多くの設備

内に付着したものを高圧の水によって洗い流す作業である。そのためには設備を分解し

洗浄が終われば組み立てる作業が必要となる。また、大きなタンク内に洗浄作業用の

足場を組み立てることも必要になる。

 と言ったわけで洗浄作業員だけでなく、設備を解体したり洗浄が終われば元に組み立て

たりと大勢の人を雇っている。こうした人の中にはレッカー車等の重機を使い重い設備の

上げ下ろしをするとび職や、鋼管で足場を組むとび職など、体一つで世渡りをしているような

気の荒い人も少なくない。

 こんな人達を相手に朝の仕事にかかる時から安全に関する訓辞を行い、新規入場者には

安全教育を行い、仕事を安全に行っているか日々のパトロールで目を光らすわけである。

不安全な行動をしていれば、その場で注意する。躊躇している余裕などはない。日々かなり

テンションを上げていないと出来ない仕事である。

 衛生管理者という資格はあっても安全管理者という資格はない。それだけ安全管理は

奥が深く、たとえ試験制度があったとしても試験で取得した知識だけではどうにもならない

仕事だと言うことだろう。安全は人の心に深く根ざしている。自堕落な生活をしているものは

日常の行動に表れる。そういうものに限って事故やトラブルを起こしやすい。

 そうした人達をどのように指導し、安全サイドに仕事をさせるかは大変難しい問題である。

強く叱れば反抗する、だからと言って優しく言っていたのでは舐められる。そこのところが

非常に難しい。

 一年目の定期検査時は、まったく五里霧中であった。どうすれば安全管理が出来るのか。

現場に入ったときから悩み続けていた。彼らの行動を監視する基準さえ分からなかった。

高所作業時に安全帯(命綱)を使用していない人間に安全帯を使用しろと注意するぐらい

の事は出来たが、出来るのはその程度の事であった。

 ただ、私には長い間、人と言うものを見てきての信念のようなものがあった。それは信頼

関係さえ出来れば何とか話が通じるようになるということであった。そのためには限られた

期間内に出来るだけ早くお互いの信頼関係を作らなければならなかった。しかし、初年度

からそれをするのは無理であった。お互いが顔見知りになるには期間が短すぎた。

 こうして私の安全管理に関する仕事が始まったのである。まさか定年になった自分が場所

が異なるとは言え、再び化学工場に立とうとは思いもよらぬ事であった。二年目は大定修

ではなかったが、T社の受注工事は多く、前年に引き続いて同じ仕事を行った。その定期

点検の中頃、私の古巣であるN合成の後輩から電話があった。ある化学会社の定期点検

時の「元方」が出来る人を捜していると言うことであった。安全管理さえ未熟な私に「元方」

などと言う未知の仕事が出来るのだろうか、心の中には大いなる不安と疑問があった。

しかし、たっての頼みでもあり迷っていたところ、家内の「やってみたら」と言う言葉に背中

を押されるようにして承諾してしまった。

 三月一杯、T社で仕事をし、ほんの短期間の休みをとって新しい勤務地に赴いた。そこは

実に凄まじいばかりの現場であった。何十年に一度あるかないかと言うような大定修で

あった。短期間に新しい設備の設置や古い設備の更新を終わらせなければならないという

現場だった。

 さして広くもない現場に一度にレッカー車が何十台となく入るような現場で、一度プラントの

中に入ると鋼管足場で先が見えないほどであった。とても一ヶ月余の期間中に終了出来る

とは思えないほどの工事量だった。

 蟻が甘いものに群がるように色んな職種の人が現場に入っていた。大きな事故やトラブル

が生じなかったのは不思議なくらいであった。むろん何もなかったわけではなく、何件かの

小さい事故やヒヤリ事例はあり、何度か救急車が駆けつけるような事もあったが、この規模

で、この程度で終わったことが実に不思議なくらいであった。

 とにかく、どこから集めてきたのか、集まってきたのか人、人、人であった。これだけの人

が一つの現場に入ると、中には「元方」の注意など、どこ吹く風のような素振りの者も少なく

ない。いわば荒くれどもの集まりである。

 こうした人の集団を束ね、安全を維持管理していくことに、どんな方法があるというので

あろうか。私はひたすら自分のポジションに於ける作業員や監督者とのコミュニケーション

を出来るだけ早く作ろうと努力した。こうして長い長い定修が少しずつ進み何とか予定期間

内に終了したのであった。

 終了間際に一人の若者と二人だけで話し合うことが出来るような間柄になっていた。彼は

とび職であり、仕上げという設備の解体や組み立ても出来る腕の立つ男であった。聞けば

どこの会社にも属することなく、仕事があれば体一つでその現場に出向き仕事をしていると

話していた。一見濃いサングラスなどをかけ怖そうに見えたが素顔は人なつっこい好青年

であった。今、彼はどこでどんな仕事をしているのだろうか。

 こうした人間関係が出来てしまうと安全にも率先して協力をしてくれるようになる。彼の

ように仕事が出来、リーダーシップがとれるような人物が真面目に安全作業をしてくれる

ようになると、私の考える安全管理の第一歩はひとまず成功である。

 また、鋼管足場を組み立てる多くのとび職の中に、ある若者集団がいた。中には十代と

思われるような若者も居る集団であった。この集団は誠に統制が取れていて気持ちの良い

集団であった。我々、統括パトロール者に対し「御安全に」という挨拶が素直に出来ていた。

私はこの集団の仕事ぶりに惚れて表彰対象に推薦したことがあった。この表彰は彼らの

励みになったであろうか。

 この間、前の勤務先であったZ社内の定検も終わり、T社が安全表彰を受けたと人づてに

聞いた。苦労した現場だけに本当にうれしかった。形のない勲章を貰ったようなものであった。

 このように多くの経験を経て、私自身が一回りも二回りも大きく成長した一年であった。

こんな貴重な体験を元に今年三年目の定期点検を迎えた。昨年、一昨年の不安が嘘の

ように消えていた。だからと言って安全に関する指摘事項がなくなったわけではない。また、

ヒヤリ事例とかトラブルがなくなったわけではない。安全とは誠に難しいものである。

 私が季節労働者のように、この時期になると勤務を始めて三年目を迎えた。その三年目

の勤務も三月末をもって終了した。約一ヶ月半近く、ほとんど無休の毎日であった。休んだ

日は前半の二、三日と後半のわずかに一日だけだった。半日休んだ日は岡山に行く予定

の日であった。

 実はこの日、休みたかったのだが一番忙しい時期でもあり、統括パトロールの日でも

あったので午前中だけでも出勤しなければならなかった。雨が激しく降る日であった。私は

簡単な雨具だけを身につけてパトロールに出かけた。パトロールを終わって統括事務所に

戻った時にはズボンがびしょ濡れになっていて非常に寒かった。

 昼食を済ませ家に帰った頃から筋肉痛がして何となく熱っぽかった。一旦、駅まで行った

のだが、ホームの時刻表を見ると三月十五日から大幅に発車時刻が変わっていた。会議

に間に合うような電車はなかった。

 これは行くのをやめておけと言うことだろうと思い、風邪気味で出席出来ないと電話連絡

し家に帰って寝ることにした。体温を測ると三十八度近くあった。どうやら連日の疲れと、

この日の寒さで風邪を引いてしまったようであった。幸い、半日ほど横になっていただけで

寝込むような事はなかった。気も張っていたのだろう。

 安全パトロールは一日に三回から四回行う。この工場の端から端まで歩くと約一キロは

ある。この間、プラントの三階に上がったり降りたりを繰り返す。多いときで二万六千歩の

時もあった。平均で二万歩くらい毎日歩いていただろうか。良い運動にはなるが、正直言って

疲れる。家に帰り夕食を食べ終わると、すぐに眠気が襲ってくる。

 そんな毎日の繰り返しが三十余日続いた。安全管理とは体力、知力を要する仕事である。

そして何よりも気力を要する仕事である。目を光らせなければならない私自身の気力が

失われたら監視の目は甘くなる。そんな時に限って事故やトラブルが発生する。

 三年目となった定期点検では作業員に多くの知己を得た。こちらから頭を下げなくても

向こうから挨拶をしてくれるようになった。最後の日には、もう会えないかも分からないと

言ってわざわざ挨拶に来てくれるものもいた。うれしい限りである。こうした人間関係こそが

安全管理の基本である。体力勝負のこの仕事をこの先何年続けられるか分からないが、

やりがいのある仕事だけに続けていくのも悪くはないと思っている。

                                2008年7月30日掲載

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