ああ野麦峠

 もうずいぶん昔の事になるが、私は上高地に向かう観光バスの中で、車窓に展開する周辺の景色を眺めながら、

ガイドさんの話を聞いていた。道縁には野麦峠という標識が立っていた。

 ガイドさんの話は「ああ野麦峠」という映画についてであった。私は話を聞きながら、いつしかこの映画の様々な

シーンを思い出していたのだった。その一つは吹き荒ぶ吹雪の中を荒縄で数珠繋ぎとなった少女達が、この野麦峠

を越えていくシーンであった。思い出しながら目頭に熱いものがこみ上げるのを禁じ得なかった。そういえばこの周辺

の山裾には、今もなお荒れ果てた桑畑が点々と残っていた。昔からこの地方は養蚕と関係の深いところであったようだ。

 明治初頭、江戸改め東京では外国の高官や商社員を迎え、連日のようにきれいに着飾った淑女や紳士達がダンス

に興じていた。一方、遠く離れた岡谷(諏訪湖のほとり、現在の岡谷市)の工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う

中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。実に過酷な労働であった。大半の少女達は

草深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。

 私が初めてこの映画を見たのはもう随分昔のことになる。「ああ野麦峠」は山本茂実さんという方が、これら紡績

工場の女工さんだったお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめられたものだという事だが、残念ながら

私自身は読んでいない。そして後に本と同じ題名の「ああ野麦峠」として映画化された。

 明治は文明開化の名の下に、日本が華々しく海外に向けて門戸を開いた幕開けの時代だった。しかし、日本は

植民地にこそならなかったものの、背景には不平等条約の元で多くのものを外国に求めなければならないという

厳しい国内事情があった。その一つが軍事力の強化であった。列強に負けないだけの近代装備を整えるためには

莫大なお金が必要であった。その資金の多くを絹糸などの軽工業製品の輸出に依存していた。当時、絹糸の輸出は

外貨を獲得するための大きな手段の一つであった。日本の各地で養蚕が行われ、蚕の作る繭は高値で取り引き

されていた。しかし、繭を生産しただけではお金にならなかった。蚕糸を絹糸という製品にしてこそ価値があった。

この絹糸の紡ぎ手として、多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。

 映画のストーリーは、ある主人公(大竹しのぶ)を軸に周辺の色んな境遇の少女達や、工場主達の姿を描きながら

展開していく。当時、百円といえば大変な大金だった。百円工女になることは彼女たちの誇りだった。だからこそ、

無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。しかし、そんな頑張りもつかの間のこと。重労働に疲れ、いつしか体は

病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。会社から連絡を受け引き取り

に来た兄さん(地井武男)の背に負われ、追われるように工場を後にする。いくつもの町や村を抜け野宿しながらの

徒歩による長旅だった。少女は目指す飛騨のふる里を目の前にしながら息を引き取ってしまう。政井みねという少女

だった。実在したモデルを大竹しのぶが演じていた。

 まさに全編、涙なしでは見ておられないような映画だった。今でもこのシーンを思い出すたびに目に熱いものが

こみ上げてくる。明治初頭の日本の光りと陰の部分を見事に映像化した映画であった。

山本茂実原作   山本薩夫監督  大竹しのぶ主演   「ああ野麦峠」

                                                 2002年5月19日掲載

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